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タクシーの乗り逃げも色々 運転手の「やられた」瞬間

鉛筆画家 安住孝史氏

東京・代々木にある小田急線の踏切(画・安住孝史氏)
夜のタクシー運転手はさまざまな大人たちに出会います。鉛筆画家の安住孝史(やすずみ・たかし)さん(82)も、そんな運転手のひとりでした。バックミラー越しのちょっとした仕草(しぐさ)や言葉をめぐる体験を、独自の画法で描いた風景とともに書き起こしてもらいます。(前回の記事は「その距離でタクシー使う? 運転手が考えた大人の事情」

東京の街はタクシーを運転して走っていると、短い時間で街の様子が移り変わり面白いものです。同じ銀座でも、京橋寄りと新橋寄りでは雰囲気が違いますし、東京駅は丸の内側と八重洲口で同じ駅と思えないほどです。新宿駅も東口と西口で目に見えて変わり、南に向かって小田急線の踏切を渡るとすぐ、大学予備校や専門学校に通う若者の街になります。

「六本木で友達を拾いたい」

10年ほど前でしょうか。その小田急線の踏切とJR代々木駅の間で、若い女性が乗ってきました。「六本木に寄ってください。六本木で友達を拾って、赤坂に行きます」とのこと。そして「友達はもう待っていますから」と急いでいる感じでした。

道順を聞いて走り出し、六本木の交差点が近づいたところで「お友達はどのあたりで待っていますか」と聞きますと「交差点を渡ったところで止まってください」と言います。そして停車すると「すぐに連れてくるから待ってて」と降りていきました。長くは止めにくい通りでしたので、やきもきして待ちます。3分、4分……。ちょっと外に出て辺りを見回してもみました。

こうしたケース、多くの運転手は5分を過ぎると「やられた」と思います。乗り逃げです。まだ20歳にもならない年齢にみえましたので、僕も油断していました。考えてみると、友達とは携帯電話でも調整できたはずです。僕が話しかけるまで、ほとんど会話がなかったのも要注意でした。

タクシー運転手はお客様に気楽に話しかけてはいけないことになっています。会社からもお客様とは同じ土俵にあがるな、どんなに若いお客様でも友達口調はいけないと注意されています。僕も話しかけられない限りは黙って運転するようにしていましたが、あまりに沈黙が続くのは不安でした。会話が弾むお客様は、なんとなく人柄もわかりますし、トラブルの心配もまずありません。

乗り逃げされたタクシー運転手は、料金メーターを固定したまま近くの交番に被害を届けます。ただ、このときは届けませんでした。僕は2千円くらいまでの損なら、時間がもったいないので、自分でかぶっていました。交番をさがして手続きを終えるまでそれなりの時間がかかりますから、その間に次のお客様をつかまえることができれば損はカバーできたのです。

乗り逃げにもいろいろありました。夜11時すぎでしたが、30代くらいの女性を住宅街の行き止まりにあるアパート前までお乗せしました。その女性は「部屋でお金を取ってくるから待ってて」と降りたまま戻ってきません。おかしいと思って車から出てみると、アパートの横に小さな抜け道のような路地がありました。その瞬間に「やられた」と思いました。10分ほど待ちましたが、やはり戻ってはきませんでした。

乗車中に「河原で用を足すので、橋の手前でいったん降ろしてほしい。がまんできない」と言いだした中年男性もいました。男性は車を降りて土手をしばらく歩くと、急に走り出したのです。僕はあわてて車を飛び出し、追いかけましたが、タクシーが見えなくなるところまで行くわけにはいきません。このときは料金が3千円を超えていたこともあり、近くの駅前にあった交番に届けました。お金は戻ってきませんでしたが。

後部座席に置かれた紙袋

料金を取り返すことができた同僚もいました。「たっちゃん」と呼んで親しくしていた彼に聞いた話ですが、女性が未明に渋谷で「忘れ物を取りに家に帰った後、そのまま渋谷まで戻る」といって乗ってきたそうです。深夜料金での往復ですから、彼も悪くないと思ったといいます。よくよく考えると、おかしな話ではあるのですが。

その女性は降りるとき、デパートの紙袋を後部座席に置いていったので、たっちゃんも安心して待ったそうです。ところが、いつまでたっても戻って来ません。心配になって紙袋をのぞいてみると、中にはクチャクチャに丸められた新聞紙が入っていたのです。まさに「やられた」と思う瞬間です。

通りかかった新聞配達のお兄さんに交番を聞いて被害を届け出ると、警官は「またやったか」と、そのまま女性が降りた場所に近い住宅に彼を案内し、呼び鈴を押しました。「お宅の娘さん、さっき帰ってきたでしょう」。すると家族がきちんと料金を支払ってくれたとのことです。巧妙な手口も、常習になると、あっさりばれてしまうものですね。

今回はなんだかイヤな話が続いてしまいましたが、世の中、棄(す)てたものではないという話を一つ。

高田馬場駅(画・安住孝史氏)

東京都新宿区にある高田馬場駅のそばで「抜弁天(ぬけべんてん)まで」と乗ってきた若い女性がいました。車内に少しアルコールのにおいが漂います。まだ飲み慣れていないせいでしょう、女性は自分でもそれがわかったようで、気恥ずかしそうに「今まで大学のコンパで」と話してくれました。「高田馬場はよく利用する街で」などとお話を聞きながら、距離で2~3キロメートル先にある抜弁天の交差点まで来ると、コンビニエンスストアの前で車を止めるようにいわれました。

お客様は「こまかいお金がないから、コンビニで買い物してくずしてきます」とのこと。それまでの会話で人柄に好感をもっていましたから、心配はしていなかったのですが、ちょっと驚きました。女性は戻ってくると、料金と一緒に缶コーヒーを手渡してくれたのです。

父の日にお客様からケーキをいただいた前回の話と似たエピソードですが、やはり若い人のやさしい気遣いがうれしかったのを覚えています。

安住孝史
1937年(昭和12年)東京生まれ。画家を志し、大学の建築科を中退。70年に初個展。消しゴムを使わない独自の技法で鉛筆画を描き続ける。タクシー運転手は通算20年余り務め、2016年に運転免許を返納した。児童を含めた芸術活動を支援する悠美会国際美術展(東京・中央)の理事も務める。画文集に「東京 夜の町角」(河出書房新社)、「東京・昭和のおもかげ」(日貿出版社)など。
【バックミラーのいとしい大人たち 記事一覧はこちら】

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