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相場師列伝

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中太氏 大局観に立ち、目先は追わない

2020/9/19 2:00
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明治を代表する相場記者、野城久吉が中太について書いている。

「中太は米一点張りの相場師で、例の買い好きで押し通した。確か、明治12年(1879年)の米価騰貴の時だろうと思うよ。その時などは東京の籾山吉右衛門の代理で買うて買うて買いまくり、大いに当たって国へ帰り、売買しておったが、大手として一流たるを失わぬ」

桑名の中太が米相場の高騰で大もうけするのは明治13年(1880年)のこと。野城は明治12年と書いているが、この年の米価は平穏で翌13年全国的に高騰、初めて1石(60キロ)当たり10円大台に乗せるからだ。「日本米価変動史」(中沢弁次郎著)にはこの時の高騰ぶりをこう記している。

「東西の米商盛んに活躍し、米価をあおること一方ならず、ついに3月19日に至り、大阪米商会所役員は売買上不穏当所為ありとして立ち合いを中止、……月を越え、4月12日、当局はついに東京、大阪をはじめ、その他各地米商会所に向かい、定期(先物)米の売買停止を命じた」

明治13年12月には1石当たり12円台という空前の高値を見るに至る。この時のもうけ頭が中太であった。

中太は米相場の盛んな三重県桑名の粉ひき職人の家に生まれた。子供のころから相場が大好きで、近在に粉を売りに行った帰りには必ず米商会所に入り込んで、売った、買ったと憂き身をやつすのが常であった。桑名では相場で損をしてもとがめられることはなかった。相場には寛容な土地柄であった。「桑名の夕市」というのがあって桑名で立つ夕方の米相場は翌日の堂島や蛎殻町の米相場の指標として注目された。

中太はまだ肩上げのとれない頃から米相場会所に出入りし、大人に混じって相場を張ってきただけあってなかなかの相場巧者であった。

「中太は2枚、3枚の端数売買をする頃から、決して目先の小すくいをしないで、常に思惑勝負をのみやっていた。彼が桑名市場で『大体さん』と異名をとったのも、つまりは、口に『大体を張らなければ損だ』とか、『大体へ着目せねば損が多い』とか言ったように大体の語を言い続けたからであろう。彼が開運の端緒をとらえたのは何年ごろであったか、米茂に引きたてられた時というのは事実に近いようである」(明治36年〈1903年〉5月28付読売新聞)

中太が口癖のように言っていたことは「大体」、つまり相場は大づかみに張れ、ということだった。目先の小さな波動を追うのではなく、大局観に立って張れ、というのだ。中太も初めのうちは目先の小波動を追いかけては一喜一憂していた。それがサヤ取り師になり、やがて大勢張りの明治初期を代表する本格的相場師の列に並ぶようになる。

明治半ばのこと、中太や諸戸、籾山、魚治、魚金ら桑名出身の有力相場師、5人が共同出資で合資形式の仲買店を東京兜町にこしらえ、地場ではこの仲買のことを「桑名印」と呼んだ。そして中太が代理人(取引員に代わって市場で売買する人のこと、場立ちともいう)となる。明治14年(1881年)、15年の頃、天下の糸平・田中平八、大阪の阿部彦太郎、名古屋の二階将軍・松沢与七らが豊作を当て込んでカラ売りしてくると、中太の桑名印は「貴様が売るだけおれが買おう」と、買い向かい、相場は高騰、中太のもうけは1万円に達し、今の価値に直せば1億円を上回るだろう。

だが、共同出資の桑名印はやがて閉店となる。相場師仲間は自己主張の強い面々だけに運営が容易ではなかったのは十分想像できる。

中太は大金をもって桑名に帰り、明治23年(1890年)の上げ相場でも勝利を収める。だが、天は二物を与えなかった。中太は相場運には恵まれ連続して勝利を収めるが、明治31年(1898年)の買い占め戦で心臓を傷めたのがもとで早世して果てたのは惜しまれる。=敬称略

信条
・相場は大局観に立って張る
・目先の小さな動きは追わない
・少年時代から大人と勝負
(ちゅうた 生没年不詳)
三重県出身、父親は粉ひき職人であった。少年期から桑名の米商会所に出入りした。明治13年の米価高騰に乗じて買いで大もうけした。明治31年(1898年)の買い占めで巨利を博すが、心身をすり減らし、若くして他界した。

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