西新宿(東京・新宿)浄水場跡の超高層ビル群
この地は首都給水施設の中心であった淀橋浄水場の正門あとです――。新宿駅西口から歩くこと約5分。西新宿の超高層ビル街の片隅にひっそりと石碑がたたずむ。かつて一帯は総面積約34万平方メートルの巨大な浄水場だった。

新宿歴史博物館の芦崎泰彦学芸員は「長方形の区画が整然と並び、道路が立体的に交差する特徴的な街の形からは浄水場だったときの名残が感じられる」と話す。
新宿駅西側に浄水場の建設計画が持ち上がったのは1890年だ。明治時代に入っても都心部の水道は相変わらず江戸時代からの玉川上水や神田上水を使っていた。木製の水道管は腐朽が進み、下水のし尿などが流れ込むなど水質はひどいものだった。衛生環境の悪さも手伝ってたびたびコレラがまん延し、86年の大流行では東京府(当時)だけで1万人が死亡したとされる。近代的な浄水場の整備は喫緊の課題だった。
着工から約6年を経て98年に給水を開始した淀橋浄水場は長さ218メートル、幅103メートル、深さ5メートルの沈殿池3面と、長さ78メートル、幅51メートル、深さ0.8メートルのろ過池24面を備える巨大施設だった。多摩川から引いた玉川上水の水を沈殿、ろ過して1日24万立方メートルの大量の水を都心部に供給した。ところが新宿駅のターミナル駅化で早くも大正時代後半には移転運動が起こる。百貨店などが立ち並ぶ華やかな駅東側とは対照的に、西側は巨大な浄水場が大規模開発の障壁となった。

移転計画が動き出すのは高度経済成長まっただ中の1960年だ。東京都は淀橋浄水場を廃止して跡地を市街地として整備する新宿副都心計画を決定。65年に機能は同じ多摩川水源の東村山浄水場に移転され、67年の歴史に幕を閉じた。
広大な跡地には日本初の超高層ホテルの京王プラザホテルが開業するなど超高層ビルが続々と建設された。91年の東京都庁の有楽町からの移転でほぼ今の西新宿の形となった。
跡地に整備された新宿中央公園の高台の上には浄水場内にあった六角堂と呼ばれる洋風のあずまやが今もそのままの形で残る。当時の周辺は茶畑や竹やぶが広がるのどかな場所で富士山がきれいに見えたという。六角堂から林立する超高層ビル群を仰ぎ見るとき首都東京の変貌ぶりに驚かされる。(小西雄介)