/

江戸の幽霊、大阪まで歩いた? 守口の寺、功徳伝える足跡

とことん調査隊

ひゅーどろどろ、という音とともに、柳の陰から現れる死に装束の女。ふと見れば、女には足がない……。これが多くの日本人が思い浮かべる典型的な幽霊のイメージだろう。ところが、大阪府のある寺には幽霊の足跡が保存されているという。足がないはずの幽霊に足跡が残っているとはどういうこと? 調査を進めるうちに、なぜ幽霊に足がなくなったのかも見えてきた。

来迎寺(大阪府守口市)を訪ねると、住職の白川雅宏さんが迎えてくれた。堂内にあったのが「幽霊の足跡」だ。

足の長さは17~18センチほど。仏前に敷く1畳大の座具に残っている。足の指や土踏まずの形まで、意外なほど白く明瞭だ。漂白剤で布地の色を足形に落とせばこういうふうになるのかも、という気もする。白川さんは「歳月を経て座具は傷んでいるのに足跡だけはくっきりとしたまま。不思議です」と首をかしげる。

寺に詳しい事情が伝わっている。1743年、来迎寺の住職のもとに女の幽霊が現れた。江戸の日本橋小網町の大工の妻お石と名のり、「夫が私の臨終に弔いもしてくれなかったので成仏できない。どうか、成仏させてほしい」と頼んだ。住職が座具の上に幽霊を立たせ念仏回向すると、幽霊は成仏した。座具の足跡はその時のものだという。

それにしても、なぜ江戸の幽霊がわざわざ大阪まで? 白川さんは「来迎寺は江戸時代、信徒を増やすため江戸にご本尊の天筆如来の掛け軸を持って行き、開帳していた。幽霊となった女は掛け軸を拝んだ縁で来迎寺を訪れたのでは」と教えてくれた。誰がどのようにこの足跡を作ったのか、今となっては分からない。しかし、信徒を増やすための話題作りに幽霊の足跡が一役買ったのは確かだろう。

それにしても多くの幽霊画にあるように、幽霊と言えば足がない。気になったので、江戸期の絵画に詳しい北斎館(長野県小布施町)の安村敏信館長に話を聞いた。「その足跡ができたのが応挙が活躍した時期よりも前だからでしょう」とさらり。「幽霊の足がなくなったのは、江戸期の絵師、円山応挙の幽霊画の大ヒットがきっかけ。座具の足跡がそれ以前にできたものなら、幽霊に足があっても不思議ではない」。座具に足跡ができたという1743年当時、1733年生まれの応挙は10歳くらい。足跡は応挙が活躍するより前のものだ。

「応挙以前、幽霊の絵は江戸初期の浮世絵や版本にたまに見かける程度。菅原道真のような怨霊はともかく、幽霊を絵に描く例は江戸時代以前にはほぼ見当たらない」(安村館長)。応挙は幽霊を描いた先駆者だ。当時、怪談を語り合う百物語が流行し、床の間に飾る幽霊画が求められたという事情もあったようだ。

前例の乏しい幽霊画を描くにあたって、応挙はより怖く描くにはどうすべきか悩んだのだろう。その結果生まれたのが足を描かない演出ではないか。「足があると歩いてくる必要があるが、足がないと遠くからふっと目の前に音もなく現れることができる。何も存在しないはずのところでふと振り向いたら幽霊がいるという怖さを狙って足を描かなかったのでは」(同)

応挙は写実的な細やかさが持ち味で、リアリズムの絵師として名高い。存在しない幽霊をリアリティーをもって描く工夫が当時の人を驚き怖がらせることに成功した。

大きな影響を与えた応挙の幽霊画だが、応挙真筆の幽霊画は2点しか現存しないとされる。2点とも、冷たい印象の美人。まなざしから伝わる強い情念が印象的だ。「美しい人が怖い表情をすると、怖い。これこそがリアリズムのインパクトだ」(同)

幽霊の足跡は応挙以前の幽霊の姿をひそやかに伝えている。江戸期の人々が想像した幽霊の姿に思いをはせ、調査を終えた。(山本紗世)

春割ですべての記事が読み放題
今なら2カ月無料!

セレクション

トレンドウオッチ

新着

ビジネス

暮らし

ゆとり

新着

ビジネス

暮らし

ゆとり

新着

ビジネス

暮らし

ゆとり

フォローする
有料会員の方のみご利用になれます。気になる連載・コラム・キーワードをフォローすると、「Myニュース」でまとめよみができます。
春割で申し込むログイン
記事を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
春割で申し込むログイン
Think! の投稿を読む
記事と併せて、エキスパート(専門家)のひとこと解説や分析を読むことができます。会員の方のみご利用になれます。
春割で申し込むログイン