奈良公園、鹿と歩み140年 絶滅危機越えディアパークに
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関西タイムライン
2020/7/9 2:01
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いにしえの万葉人にとって、春日山の麓に広がる春日野は野遊びの場だった。明治維新後、春日野一帯につくられたのが奈良公園(奈良市)だ。新型コロナウイルスの感染拡大で人間よりもシカの姿が目立つ時期もあったが、ここへきて観光客が戻りつつある。2020年は開園140年。野生のシカと人間が共生する世界でも類をみない「ディア(シカ)パーク」の歴史をひもとく。

ももしきの 大宮人は 暇(いとま)あれや 梅をかざして ここに集(つど)へる(万葉集巻10、作者未詳)

「平城京の官人や貴公子たちは、梅を髪にかざして都東郊の春日野の辺りに集まり、打鞠(だきゅう)に興じたり、酒を酌み交わしながら歌を詠み合ったりした。都周辺では随一の行楽地だった」と奈良文化財研究所の馬場基・史料研究室長は言う。

■町衆が働きかけ

公園は1880年、太政官の伊藤博文内務卿の開設認可によって誕生した。当初の区域は興福寺旧境内地と猿沢池周辺の14.7ヘクタール。近代化政策を進める明治政府は、西洋の「パーク」にならって全国の名所旧跡の公園化を指示した。東京・上野の寛永寺の境内地が上野公園となったように、廃仏毀釈によって官有地とされた興福寺の境内地が公園になった。

「奈良の町衆が公園の開設を働きかけた」。奈良の近代史に詳しい奈良県立橿原考古学研究所の森下恵介共同研究員は語る。「公園地として整備するため、堺県(当時の奈良県は堺県に併合)に興福寺の境内地の借用を願い出た。有志の出資を募って『興立舎』を設立し、植樹などを進めた。それが公園の開設につながったのです」

再設置された奈良県は東大寺などの寺社境内地や若草山、春日山原始林などを加え、奈良公園の拡張と整備を進めた。1922年に国の名勝に指定され、98年には東大寺、興福寺、春日大社を含む公園一帯が世界文化遺産に登録された。

公園の主人公ともいうべき「奈良のシカ」が国の天然記念物に指定されたのは57年。春日大社の社伝によると、奈良時代の768年、常陸国(現在の茨城県)の鹿島神宮の大神が白シカの背に乗って春日山の主峰、御蓋山(みかさやま)に入った。以来、同地のシカはその子孫「神鹿(しんろく)」になったという。

実際に奈良のシカを「神の使い」とした最も古い記述は、平安中期の能書家で「三跡」の一人とされた公家の藤原行成の日記にある。氏神である奈良の春日社に参拝した帰途、シカに遭遇して「これ吉祥なり」と喜んだ。

■食糧難で密猟

時の政治権力を持つ興福寺や奈良奉行がシカの保護を担ってきたが、明治維新直後は旧弊一新を掲げる奈良県令によって馬車を引かされるなど、絶滅寸前に追い込まれたという。太平洋戦争が終わると食糧難から密猟され、79頭まで減った。現在は一般財団法人「奈良の鹿愛護会」が保護に当たり、約1400頭近くまで増えた。

広々とした緑の芝地で、シカの群れが草をはむ。春日大社の西に広がる飛火野に、いにしえの春日野の面影をみる人も多いだろう。「現在の公園の風景は明治の人たちがプロデュースしたもの」と森下さん。飛火野も明治期に御用地とするため林を伐採して整備された。開発と保全の絶妙なバランスの上に、時間を重ねてつくりあげてきた。

公園の範囲も複雑だ。寺社の境内は現在、都市公園区域から除外され、飛火野の芝地も厳密には春日大社の境内地で、公園には当たらない。「人間の線引きを越えて奈良公園に統一感をもたらしているものがあるとすれば、シカの存在だろう」と奈良の鹿愛護会の蘆村好高事務局長は語る。

シカは朝、山から平たん部の芝地に下りてきて草をはみ、夕方になると山へ帰っていく。鹿愛護会は15~16日、ボランティアらが目視で興福寺周辺から若草山の山頂までシカを数える。シカせんべいの売り上げもコロナ禍で激減した。奈良公園を「ディアパーク」と名付けた訪日外国人客が戻るのは、いつのことになるのだろう。

(岡本憲明)

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