堺の鉄砲生産、幕末まで活況 鍛冶屋敷から帳簿
文化の風 関西大学・藪田貫名誉教授寄稿

関西タイムライン
2020/6/26 2:01
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「井上関右衛門作」の銘がある幕末に製造された火縄銃。銃身がやや太く短いのが特徴(堺市文化財課提供)

「井上関右衛門作」の銘がある幕末に製造された火縄銃。銃身がやや太く短いのが特徴(堺市文化財課提供)

大名家からと見られるオーダーメードの鉄砲注文状。流派や仕様の細かい書き込みがある(堺市文化財課提供)

大名家からと見られるオーダーメードの鉄砲注文状。流派や仕様の細かい書き込みがある(堺市文化財課提供)

 戦国時代に活況を呈した堺(堺市周辺)の鉄砲生産。江戸時代に入り戦乱が収まるにつれて、徐々に衰退したと思われていた。ところが最近、堺の鉄砲鍛冶屋敷から膨大な史料が見つかり、鉄砲ビジネスが江戸時代も盛んだった事実が明らかになってきた。調査を主導した関西大学名誉教授の藪田貫氏が解説する。

■通説書き換えか

天文12年(1543年)の鉄砲伝来は、日本の歴史を彩る一大トピックとしてよく知られている。その後、鉄砲は合戦の主力となり、大量生産の時代に入る。堺は近江国友(くにとも)(滋賀県長浜市)とともにその主産地であった。司馬遼太郎が「街道をゆく24『近江散歩、奈良散歩』」で紹介する国友の地を歩いたのは1983年。国友には4年後に「国友鉄砲の里資料館」(現国友鉄砲ミュージアム)ができるが、鉄砲に関する歴史は「徳川の平和」とともに急速に斜陽化し、幕末には西洋砲術に転換するというイメージで固まっている。

江戸前期に建てられた鉄砲鍛冶、井上関右衛門家主屋。住居兼工房だった(堺市北旅籠町西)=堺市文化財課提供

江戸前期に建てられた鉄砲鍛冶、井上関右衛門家主屋。住居兼工房だった(堺市北旅籠町西)=堺市文化財課提供

その通説が近年、空襲で焼け残った堺市内の一画、北旅籠(きたはたご)町西にある一軒の鉄砲鍛冶屋敷の調査によって書き換えられつつある。2015年、堺市と関西大学が共同で始めた堺鉄砲鍛冶屋敷井上関右衛門(せきえもん)家の史料調査の成果である。何より驚いたのは、主屋や蔵などを含む敷地950平方メートルの町家から、2万点を超える史料が出てきたことである。しかしそこには、最後の鉄砲鍛冶第12代関右衛門の「残そうとした」遺志が認められる。

鉄砲鍛冶屋敷から見つかった江戸時代の帳簿類(堺市文化財課提供)

鉄砲鍛冶屋敷から見つかった江戸時代の帳簿類(堺市文化財課提供)

関右衛門は明治29年(1896年)まで鉄砲弾薬商を続けた堺で唯一の、そして最後の鉄砲鍛冶であった。明治36年(1903年)の第5回内国勧業博覧会を前に、大阪府勧業調査委員への報告で「文政・天保年間ハ平均 挺(ちょう)ニシテ、此(こ)ノ前後ハ実ニ鉄炮(てっぽう)師ノ全盛ヲ高メシ時代ナリ」「大名ノ注文状及雑書類ハ別ニ保存アリ」と証言している(挺数は空白)。はたしてその鉄砲注文状の束が行李(こうり)から「鉄炮屋仲間覚帳(おぼえちょう)」や「諸家様(しょけさま)出入先々名前帳」が蔵からと、タイムカプセルを開けるかの如く姿を現したのである。屋敷は2018年、日本で唯一、鉄砲の生産現場を残す建物として堺市の文化財指定を受けた。

■多種多様な注文

鉄砲ビジネスの活況は、井上家が受けた新調と修理を含む鉄砲注文数の伸びを見れば一目瞭然だ。明和6年(1769年)の20挺台が、安永8年(1779年)には50挺、天保10年(1839年)には280挺を超え、「鉄炮師ノ全盛」という証言を裏付ける。

上下二連の和製雷管式ピストル。1863年頃製造(堺市文化財課提供)

上下二連の和製雷管式ピストル。1863年頃製造(堺市文化財課提供)

鉄砲の種類は弾丸の重量で決まるが小は3匁(もんめ)(1匁は3.75グラム)前後、中は10匁、大は50匁から1貫目(3.75キログラム)の弾を飛ばす大筒(おおづつ)まで多種多様である。絵入りの注文状も残されており、注文主の鉄砲へのこだわりが見て取れる。足軽が使う鉄砲(既製品の番筒(ばんづつ))ではなく、武士が自分の好みに合わせて鉄砲を所持しようとする時代の雰囲気がそこには感じられる。

納品の実際も分かる。天保11年(1840年)に296挺であった鉄砲は、安政6年(1859年)には371挺、慶応2年(1866年)には469挺という数値を記録する。その大半が弾丸の重量3匁前後の口径の小さな鉄砲であることから、オーダーメードから大量生産へとトレンドが変わったことを示唆する。ミニエー銃やスペンサー銃という舶来品の大量流入の陰で、堺はなお鉄砲の生産を続けていたのである。

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