真木ひでとさん、歌手人生 体当たりで切り開く

カバーストーリー
2020/6/6 2:00
保存
共有
印刷
その他

 まき・ひでと 1950年福岡県田川市生まれ。68年バンド「オックス」のボーカルとしてデビュー。71年ソロ歌手に。75年「全日本歌謡選手権」で10週勝ち抜き演歌歌手として再デビュー。オックス時代から最新録音まで全111曲を収録した5枚組のCD「陶酔・心酔・ひでと節!」を発表した。 大阪・ミナミの中心、戎橋の南詰めにあったジャズ喫茶「ナンバ一番」は、沢田研二さんのいたザ・タイガースをはじめ、数々のスターを東京に送り出した。関西の若いバンドや歌手の登竜門的な存在だった。
■ジャズ喫茶「ナンバ一番」

母子家庭で育った私は、親戚を頼って東京や大阪を転々とし、小、中学校は26回転校している。中学卒業時は堺市に住んでいた。高校に合格していたが、東京で歌手になって一旗揚げたい一心で家出を企てた。友人たちに見送られて天王寺駅を出たまでは良かったが、名古屋駅に着いたところで補導されてしまった。

大阪・ミナミの戎橋近くにあった(オックスのショーが開かれた1969年当時)

大阪・ミナミの戎橋近くにあった(オックスのショーが開かれた1969年当時)

1年を棒に振り、翌年も高校に受かったのだが、入学式に出ないまま辞めてしまい、電子工学系の専門学校に入った。その頃、初めてナンバ一番へ見学に出かけた。当時は「ジャズ喫茶」と呼んだが、今でいえばライブハウスである。

その日出演していた京都の若いバンドは「ファニーズ」と名乗った。「僕ら、東京に行きます」。彼らの「さよなら公演」だった。

翌1967年にデビューし、次々とヒットを放ってグループサウンズのブームに火をつけたタイガースの前身が、あのファニーズだと知って、私は仰天した。

自分もナンバ一番のステージに立ちたい。「支配人さんに会わせてください」。しかし全く取り合ってくれない。何度門前払いされても食い下がり、ようやく会ってもらえたのは7回目か8回目のことだった。

支配人がいろんなバンドを紹介してくれたが、どこも初日でクビになった。当時は洋楽を歌えなかったからだ。見かねた司会の浜村淳さんが言った。「ちゃんと高校行って、卒業してから来た方がええんとちゃう?」。後に多芸多才のタレントとして大成する浜村さんは当時、ナンバ一番の司会をされていたのだ。

「これが最後やで」。そう支配人に念を押され、あるバンドを紹介された。偶然にも、そのバンドのボーカリストが脱退する日と重なった。私は夢中で「ブルー・シャトウ」と「霧の摩周湖」を歌った。

「合格や。明日からおいで」。後に採用の理由を尋ねると、バンドマスターは言った。「歌はド下手やったけど、荷物持ちもいないし、とりあえず若いこいつを合格させておけば……」

私の音楽人生はこうして始まった。ナンバ一番は私の原点である。

■木村幸弘とバックボーン

1967年、私は「木村幸弘とバックボーン」に加入した。関西で5本の指に入る実力派で、バンドマスターの木村さんは私より一回り以上も年上だった。バンドの別名は「漫画トリオとバックボーン」。一世を風靡していたトリオ漫才のバックも務めていたのだ。

バックボーンのメンバーと(最前列左が筆者)

バックボーンのメンバーと(最前列左が筆者)

漫画トリオは横山ノックさん、横山パンチ(上岡龍太郎)さん、2代目横山フック(青芝フック)さんという豪華な顔ぶれ。私の本名は野内正行だが、ノックさんの弟子の横山プリンさんが「野口ヒデト」という芸名をつけてくれた。

バックボーンは大阪・ミナミのジャズ喫茶「ナンバ一番」などに出演する際は漫画トリオを離れ、純粋に歌と演奏を聴かせた。

「ヒデト、ロックを歌え」。木村さんから指令が出た。青春歌謡を得意にしていた私は、ナンバ一番の前にあったレコード店の店長に相談した。「これが簡単でええんやないか」。勧められたのは、ザ・ビートルズの「のっぽのサリー」。私の重要なレパートリーになった。ザ・ローリング・ストーンズを勧めてくれたのも店長だ。ストーンズの「テル・ミー」という曲は後に私の十八番になる。

私はナンバ一番のステージで暴れ回り、全国発売の芸能誌で「関西のボーカルベスト3」と紹介されるようになった。そんな私を熱心に誘ってくるバンドが現れた。大阪で結成されたオックスだ。ずっと断っていたのだが、67年の暮れにナンバ一番で彼らの演奏を聴き、心を決めた。

しかし、簡単に脱退を許してもらえるはずがない。特に親分格のノックさんに相談するのは気が引けた。近寄りがたく、怖い人だったからだ。「東京に行けるようなバンドか」「そう思います」「そうか。ええわ、1月から行っても」

ノックさんの一言で決まった。あっけなく許しが出た理由は、後に分かった。ノックさんは68年に漫画トリオを解散して参院選に出馬し、初当選を果たす。その青写真があったから、引き留めなかったのだろう。

私は68年元日からオックスの一員になった。17歳だった。バックボーンの面々とは今も交流があり、彼らには心から感謝している。

■失神バンド

オックスに入って間もない1968年1月下旬、スプートニクスが来日した。スウェーデンの人気バンドだ。私たちが前座で関西を回ることになった。私はどの会場でも楽器を壊し、アンプを蹴倒し、観客をあおった。過激なステージが話題になり、オックス目当ての観客が増えていった。

歌唱中にステージで倒れる筆者(東京・銀座ACBで)

歌唱中にステージで倒れる筆者(東京・銀座ACBで)

ある夜、スプートニクスの2人が宿を訪ねてきた。乱行をとがめられるのかと思ったら「ユーたちはすごい。このままのスタイルで行くんだ。ザ・フーよりすごいぞ」と英国のスターの名を挙げて褒めてくれた。

オックスは東京進出を果たし、同年5月にデビュー曲「ガール・フレンド」が発売された。東京のバンドに負けたくない。ステージには勢い、熱が入った。

特にザ・ローリング・ストーンズの「テル・ミー」を演奏する時は、オルガン兼ボーカルの赤松愛と一緒に歌うことで異様なムードが醸し出された。私は放心して倒れ込み、オルガンの上にのって歌っていた赤松はそこから転げ落ちる。私はジャズ喫茶「銀座ACB(アシベ)」の高いステージから何度も落下した。

観客の若い女性たちまで失神して倒れ始め、オックスは危険な「失神バンド」としてPTAや教育委員会などから問題視された。

バンドはグループサウンズ(GS)の中でもザ・タイガースと比べられるほど人気が出てきたが、一方で失神を誘発する危険曲として「テル・ミー」など2曲が演奏禁止になり、学校や保護者などの号令で、多くのファンがオックスの公演に行くのを禁じられた。

5000人を収容できる東海地方の大会場で公演した際は、チケットは完売なのに客席には200人しかいなかった。怒りを通り越してあきれてしまった。

「ガール・フレンド」を演奏し始めたら、どこからか大合唱が聞こえてくる。教師や保護者に入場を阻止された4000人余りのファンが会場を取り囲み、歌ってくれていたのだ。忘れられない夜になった。

そのうちに演奏禁止は解除されたが、GSのブームそのものが終わり、オックスは71年5月に解散する。濃密な3年間だった。

■全日本歌謡選手権

写真は私の人生を変えた思い出のトロフィーに付いていたプレートだ。トロフィーは東京の自宅に飾っていたのだが、東日本大震災の際に落下して壊れてしまった。プレートだけ取り外して大切に保管している。

トロフィーのプレートだけ取り外して大切に保管している。

トロフィーのプレートだけ取り外して大切に保管している。

グループサウンズのバンド、オックスを解散した1971年5月末から話を始めよう。解散後、私はすぐにソロ歌手に転じた。

しかしヒットが出ない。最初の3年は悩まなかったが、次の1年は苦しかった。スケジュール帳は真っ白なのに、事務所まで毎月給料をもらいに行くのだ。経理の部屋に入った時の社員の視線が痛かった。

私は何の当てもなく事務所を辞めた。しかし、このまま大阪に帰ったら悔いを残す。わずかな希望が一つあった。テレビのオーディション番組「全日本歌謡選手権」だ。すでに五木ひろしさんや八代亜紀さんら、ヒット曲に恵まれなかったプロの歌手がこの番組を機に成功をつかんでいた。

私は出場を決意したが、元オックスの野口ヒデトが落選したら笑いものになると周囲は猛反対。それでもいい。背水の陣だった。

1次審査を通り、2次審査には350人ほど来ていたが、私とモデルの男性の2人だけが通過した。さらにテレビ放映される本選を10週勝ち抜かねばならない。どうせ今はマイナス10のどん底だ。10週勝ち抜いて、ようやくゼロに戻る。そう開き直って臨んだ。

1週目は「船頭小唄」を歌った。ゲストは後輩の西城秀樹君。私は本名の野内正行の名で出ていたが、野口ヒデトと気づいた彼は「えっ」と驚いた顔をしていた。審査員の講評は好意的だったが「オックス時代の方が良かった」といった辛口の評もあった。

五木さんの「よこはま・たそがれ」を歌って10週勝ち抜きが決まり、色とりどりの紙テープが落ちてくる中でトロフィーをいただいた。このプレートを目にするたびに、あの瞬間をしみじみと思い出す。

私は75年、演歌歌手「真木ひでと」として「夢よもういちど」で再起した。ありがたいことに曲もヒットした。諦めずに挑戦して良かった。あの時の「夢」は45年後の今も続いている。

■山口洋子さんの手紙

恩師の山口洋子さんから手紙をいただいたのは、これが初めてで、最後になってしまった。正確な時期は覚えていないが、山口さんが77歳で亡くなられたのが2014年の9月だから、その何年か前だと思う。

山口さんとの出会いは1975年、テレビのオーディション番組「全日本歌謡選手権」の時にさかのぼる。私は再起を期して10週勝ち抜きを目指す出場者、山口さんは売れっ子作詞家として審査員席にいた。

読み返すたびに、よし、頑張ろうと気合が入る

読み返すたびに、よし、頑張ろうと気合が入る

私に対する講評は好意的で、五木ひろしさんと対比した評が印象に残っている。「五木君の歌は心臓を一突きにしてくる。あなたの場合は刃物で肝臓をえぐられているような感じね」と独特の表現をされた。

この番組を先に勝ち抜いた先輩でもある五木さんをスターに育てたのは山口さんだった。私は10週勝ち抜いた後、五木さんと同じ事務所に入り、山口さん作詞の「夢よもういちど」で再デビューを果たした。五木さんは山口門下の兄弟子ということになる。

それまで私は「野口ヒデト」や「野口ひでと」の芸名で歌ってきたが、山口さんが五木さんの一文字を取って「真木ひでと」と名づけてくださった。

この手紙は、山口さん専用の原稿用紙に書かれている。作詞していただいた歌は、どれもこの原稿用紙に、この独特の字でつづられていた。

山口さんは49歳で倒れて以来、ずっと病と闘っていたから、この手紙をしたためた頃も体調はすぐれなかったはずだが、お元気だった頃の字とほとんど変わらない。今でもこの字を目にすると、あの頃の歌が次々と脳裏を駆け巡る。

「夢よもういちど」「恋におぼれて」「雨の東京」など、私は山口さんの素晴らしい作詞でヒットを飛ばすことができた。ソロ歌手として持ち歌がヒットするうれしさは格別だった。

「又、会いましょうね がんばって下さいよ ぜひ」。私は今年で70歳になるが、この手紙を読み返すたびに再デビューした頃を思いだし、よし、頑張ろうと気合が入るのである。

保存
共有
印刷
その他

電子版トップ



[PR]