新撰組や長州へ懐深い融資 豪商・加島屋、伝わる借用書
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関西タイムライン
2020/6/4 2:01
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新撰組の土方歳三と近藤勇が連署した加島屋への400両の借用書

新撰組の土方歳三と近藤勇が連署した加島屋への400両の借用書

江戸時代の大阪で加島屋久右衛門は鴻池善右衛門と肩を並べる豪商だった。加島屋の子孫である広岡家の本家・分家に伝わる膨大な「広岡家文書」「広岡五兵衛家文書」の中に新撰組副長の土方歳三が署名し、局長の近藤勇が押印した借用書が残っている。丁寧に虫干しをしていたために黄ばみもせず、美しい状態を保つ。現在は加島屋の流れをくむ大同生命保険が保管・展示している。

■「断るのが面倒」

証文は新撰組が1867年12月に加島屋から月4朱(0.4%)の利息で400両(現在価値で約2000万円)を借り、翌年5月に返済すると定めている。だが、近藤勇は68年に処刑され、土方歳三も69年に五稜郭の戦いで戦死した。大同生命の小笠原康常務執行役員は「おそらく債務不履行(デフォルト)になった」と話す。

なぜ貸したのか。文書を分析した神戸大学の高槻泰郎准教授は「断るのが面倒だった」とみる。実は証文の宛名は「広岡久左衛門」と間違えたまま。こわもての新撰組に「正しくは久右衛門」と書き直しを求めるのは勇気が要る。お寺にポンと100~200両を寄進する加島屋にとってはたいした額でない。「最初から返してもらうつもりがなかったのだろう」

大阪市西区の加島屋本家。現在は大同生命保険の本社が立っている=同社提供

大阪市西区の加島屋本家。現在は大同生命保険の本社が立っている=同社提供

加島屋は初代・久右衛門が米取引業で創業し、後に両替業に軸足を移した。正確な創業年は不明確だが、大同生命が本社を置く大阪市西区の土地に1693年時点で屋敷を構えている。こうした経緯から大同生命も加島屋に関する約2500点の「大同生命文書」を継承している。

1782年当時で加島屋のキャッシュインフローは1513貫余。島根県の津和野藩が70年に得た年貢収入は1430貫だった。津和野藩は実質的な石高が15万石といわれる。奉公人24人(1803年時点、下男下女除く)の加島屋はそれ以上に稼ぎ、労働生産性が極めて高い。

加島屋は幕府に政策資金を供給する御用商人で、幕末に約300あったといわれる諸藩の多くと取引し、「大名貸し」と呼ぶ融資を手掛けた。あまたある融資先の一つが新撰組だった。

明治維新で幕藩体制が崩れて大名貸しの多くは焦げ付き、加島屋も深手を負ったが生き残った。高槻准教授は「18世紀の段階で融資戦略として地域密着型金融(リレーションシップバンキング=リレバン)を実践していたから存続できた」と説く。リレバンは金融庁が地域金融再生に向けて、2003年に打ち出した考え方だ。取引先と密接に連携し、担保に依存しない貸し出しや、取引先企業の経営相談の強化で収益向上につなげる。

広岡浅子=大同生命保険提供

広岡浅子=大同生命保険提供

1770年、加島屋は長州藩の「大坂蔵屋敷留守居格」となった。長州藩は資金調達する前に必ず相談し、他の商人から融資を受ける際は必ず加島屋が同席して助言した。緊密な関係を築き、部外者では知り得ない情報を入手しつつ、継続的に融資する仕組みを「まさにリレバン」と小笠原常務執行役員は語る。

さらに三井家から嫁いできた広岡浅子が女性実業家として頭角を現し、加島屋をてこ入れした。1886年に潤野炭鉱(福岡県飯塚市)を買収。88年に加島銀行を設立し、さらに99年には大同生命の前身である真宗生命の経営権を得て生保事業に参入した。

■ヤンマーも救う

浅子の娘婿で大同生命の第2代社長を務めた広岡恵三は、ヤンマー創業者の山岡孫吉を支えた。世界初の小型ディーゼルエンジン開発に成功し、量産工場を着工したが、融資が受けられず事業を手放すかどうかの瀬戸際に追い込まれた山岡に日本興業銀行(現みずほ銀行)を紹介。1935年に建設資金120万円の融資が受けられるようにお膳立てした。

加島屋は高い労働生産性、リレバン、女性登用、新興企業サポートと先進的経営を満載し、新撰組から長州藩まで相手にした、懐が深くてイケてる豪商だった。

(編集委員 竹田忍)

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