京都に息づく洋画道場 関西美術院、日本画の牙城で定着
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関西タイムライン
2020/5/21 2:01
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北側の窓から自然光を取り込んだ部屋でデッサンする人たち(京都市左京区の関西美術院)

北側の窓から自然光を取り込んだ部屋でデッサンする人たち(京都市左京区の関西美術院)

教授は無報酬。時期を選ばず入学し、洋画の手ほどきを受けることができる――。京都に1906年開かれた関西美術院は、日本画の流派がひしめく京都画壇に洋画を"接ぎ木"し、多くの異才を輩出してきた画塾、いや道場だ。

京都市左京区の岡崎地区。東山連山の山すそに平安神宮をはじめ博物館や動物園、美術館などの文教・宗教施設が集まる。その一角に、関西美術院がある。

門を入ると庭木や花壇の先に、げた箱とスノコ板の上がり口。中はデッサンを学ぶための大部屋が2つ隣り合う。いずれも北向きで窓越しに自然光を採り入れるように設計されている。「自然光はモチーフの明暗や陰影を安定させ、模写を大きく左右する。自然採光でデッサン修業できる環境は、日本でも今やまれだと聞きます」。関西美術院で教授も兼ねる画家の児玉健二理事長は説明する。

入学金2万円。人体ポーズか、石こうによるデッサンかのコースに分かれ、月謝はそれぞれ2万1000円と1万1000円。生徒に当たる院生は「主婦や仕事をリタイアした層などが中心で、10~80代まで常時20人ぐらいが出入りしている」(児玉理事長)。

建物は国の登録有形文化財。京都市役所や京都府立図書館なども手掛けた武田五一が設計した。「創立者が京都高等工芸学校(京都工芸繊維大の前身)で同僚だったから、武田に気安く頼めたのでしょう」(児玉理事長)

その創立者の名は浅井忠。京都に洋画を根付かせた功労者だ。千葉県の佐倉藩士の子で、官立初の美術学校である工部美術学校を経て、1898年に東京美術学校(東京芸術大の前身)教授に就任。在任のままフランスに留学し、帰国するや1902年新設されたばかりの京都高等工芸学校の教授兼教頭に迎えられる。

登録有形文化財に指定されている関西美術院(京都市左京区)

登録有形文化財に指定されている関西美術院(京都市左京区)

浅井は前半生こそ京都と縁が薄かったが、いざ京都に居を構えると、持ち前の行動力で動き出す。当時、京都画壇は円山派・四条派をはじめ、巨匠が割拠する日本画の牙城だった。とはいえ明治になり陰影・遠近法といった西洋画の衝撃波が襲う一方、朝廷や公家、大寺院といった大きな得意先が軒並み東京に移るか弱るかして、逆境にあり一種の空白ができていた。浅井の一挙一動は、台風の目さながらに京都画壇から熱い注目を浴びたようだ。

教官は無報酬

浅井は自邸内に聖護院洋画研究所を開設。さらに大阪や京都にあった洋画の結社や画塾の草分けを束ね、06年に関西美術院を創立する。梅原龍三郎、安井曽太郎など、後に文化勲章を受章する英才が関西美術院の門をたたいた。

創立以来、教官は無報酬を貫いている。道場のような潔さだが、むしろ経営基盤にはもろさの遠因となった。関西美術院はたびたび存亡の危機に直面する。開設翌年には初代院長の浅井忠が死去。運営方針の対立から3代目院長が院生を大勢引き連れて退任……。

「なかでも2015年は石山寺(大津市)に窮地を救われた」と児玉理事長は語る。経緯はこうだ。かねて土地の所有者から立ち退きか買い取りかを迫られていた関西美術院は、当時の三谷祐幸代表(19年死去)が私財で土地建物を購入。当座の危機は乗り越えたものの、個人資産のままではなお相続時などで不測の事態に陥りかねない。

安定策を探していた関西美術院理事の一人が、石山寺の鷲尾遍隆座主と懇意だったことから、支援を打診。石山寺は三谷氏から土地建物の寄付を受ける形で同意した。

以前から浅井忠や梅原龍三郎の絵画を所蔵し芸術に理解の深い石山寺は「関西美術院の独立性を尊重し運営には干渉しない」(鷲尾龍華・責任役員)方針。「蜻蛉日記」や「枕草子」「和泉式部日記」「更級日記」に登場し、平安女流文学者に愛された古刹が、京都に息づく洋画の道場を見守る。

(編集委員 岡松卓也)

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