大坂救った発信力 洪庵、感染症と闘った不屈の医師
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関西タイムライン
2020/5/14 2:01
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除痘館が発行した種痘を勧める広告用の引き札に描かれた錦絵(中村教材資料文庫所蔵)

除痘館が発行した種痘を勧める広告用の引き札に描かれた錦絵(中村教材資料文庫所蔵)

幕末の大坂。医師で蘭学者の緒方洪庵もまた感染症と闘っていた。当時まん延したのは天然痘。発症すると高熱が出て化膿(かのう)性発疹が起こり、致死率も高い。洪庵は英国のジェンナーが開発した牛痘苗をワクチンに使う予防法をいち早く取り入れ、正確な情報を発信しつつスピード感をもって普及に努めた。新型コロナウイルスに苦しむ日本が、洪庵の闘いから学ぶことは多い。

大阪市中央区今橋のオフィス街にある7階建て「緒方ビル」。薄緑色のタイルの外壁が温かい雰囲気を醸す。テナントの大半は「クリニック」「医院」といった医療機関だ。「妊婦の方々は新型コロナに不安を募らせている。正しい情報を伝え『大丈夫ですよ』とお声がけしています」と話すのは、3階で産婦人科を営む6代目の子孫、緒方高志院長だ。「洪庵は予防医学の礎を築いた人。現場を知る開業医でもあり、一人でも多くの患者さんを助けたい一心だったはず」という。

「接種で牛になる」

約170年前の1849年(嘉永2年)。洪庵は天然痘予防のため、牛の感染症である牛痘の膿(うみ)を種痘に使う安全性の高い予防接種の普及に奔走していた。古手町(現中央区道修町)に除痘館を開設し、子供の腕から腕へと牛痘苗の植え継ぎを行った。それまでの予防法は、人の天然痘のカサブタを粉にして鼻腔(びくう)に吹き込む危険なものだったという。

ところが最初は困難の連続。「種痘をすると牛になる」「小児の身体に害がある」といった風評が広まり、最初の数年はまったく信用されず子供が集まらない。漢方医からの妨害もあり、一部の同志も洪庵から離れていった。だが洪庵はくじけない。粘り強く正しい情報の発信を続けた。

洪庵が開いた適塾。大村益次郎、福沢諭吉らが学んだ(大阪市)=大阪大学適塾記念センター提供

洪庵が開いた適塾。大村益次郎、福沢諭吉らが学んだ(大阪市)=大阪大学適塾記念センター提供

大阪大学適塾記念センターの松永和浩准教授は「多くの蘭医書を読み、正しい知識を基に正しいことをしている信念があった。営利を目的とせず、貧しい人からお金をとらない。『医は仁術』を実践し、門下生の福沢諭吉は『温厚篤実』な人と評した」と解説する。

商人が資金援助

こうした洪庵の人柄もあって除痘館の事業は徐々に軌道に乗り、創設から9年後の58年には幕府の公認を意味する官許を得る。江戸の施設の官許より2年も早く、全国に先駆けたものだった。60年には事業拡大のため、現在の「緒方ビル」のある今橋に移転する。

「大坂で除痘館が成功した要因には大坂商人の資金援助がある。特に世話方の薬種商、大和屋喜兵衛がスポンサーとして惜しみない支援をした」と指摘するのは緒方洪庵記念財団専務理事で学芸員の川上潤氏だ。洪庵は除痘館と同時に西日本を中心にワクチンを分与する分苗所を作るが、これにも喜兵衛が協力した。

分苗所の数は49年11月からたった5カ月で近畿など西日本を中心に64カ所に達した。「迅速に展開することができた背景には適塾の塾生のネットワークもあった」(川上氏)という。

洪庵の活躍は58年にコレラが流行した時も目覚ましい。複数の蘭医書を参考にたった5~6日で「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」を著し医師約100人に無料配布した。治療薬のキニーネは感染初期に使うべきだという具体的な記述もある。ここでも正しい情報の発信とスピード感のある対応に徹している。

きょう14日は「種痘記念日」。ジェンナーが牛痘種痘の接種に成功した日にちなむ。ワクチンという言葉もラテン語の雌牛(vacca)が由来だ。新型コロナのワクチンについては海外勢だけでなく、適塾の流れをくむ大阪大学や阪大発創薬ベンチャーなどが開発に動き出した。洪庵に思いを馳(は)せつつ、早期の開発に期待したい。(浜部貴司)

緒方洪庵

緒方洪庵

緒方洪庵(おがたこうあん)
1810年(文化7年)備中国足守(現岡山市北部)の藩士、佐伯惟因(これより)の三男として生まれる。8歳の時に天然痘にかかる。26年、大坂で中天游(なかてんゆう)の私塾に入門。31年、江戸で坪井信道らに師事。36年、長崎に遊学。蘭人医師から医学を学ぶ。38年、大坂に蘭学塾・適塾を開く。49年に除痘館を設立。62年幕府に召され奥医師兼西洋医学所頭取となるが、翌63年喀血(かっけつ)し急死。享年54歳。
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