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コロナ危機のプロ野球、戦中戦後の先人に学ぶ

編集委員 篠山正幸

一言にプロ野球の「危機」といっても、戦火で中断を余儀なくされた昭和の苦難と、見えない敵が相手の今度の災厄は似て非なるものかもしれない。だが、衣食住にも困窮した戦中戦後の試練を乗り越えた先人たちの取り組みと情熱に、学ぶべきこともないではない。

12球団による会議が行われた11日、斉藤惇コミッショナーは「6月半ばから下旬のどこかで開幕を目指したい」と話した。依然として楽観が許されない状況には変わりがない。すでに交流戦の見送りが決定。開幕してからも、当面無観客となり、コロナの情勢次第では、試合数がさらに絞られる事態にならないとも限らない。その場合、11月までとされるシーズンの"延長"は考えられないだろうか。

閑散とする甲子園。新型コロナウイルスの影響で開幕しても当面は無観客の開催もやむを得ない=共同

戦後のプロ野球が、終戦の年、1945年の「東西対抗」から始まったことはよく知られている。終戦の8月15日から数えて100日目の11月23日に、神宮球場で第1戦が行われ、12月には関西でも挙行された。のちに「青バット」で親しまれる大下弘選手(セネタース=のちの日本ハム)がデビューした舞台だ。

各球団を東西に分けて戦ったこのシリーズはプロ野球復興の記念碑的イベントとして、語り継がれている。

戦時下で開催された正月興業

この東西対抗ほど知られていないが、この年の1月、つまりまだ戦時下で、いよいよ日本が追い詰められていた時局でもプロ野球は行われていた。

阪神など4球団が「猛虎」と「隼」の2軍にわかれ、元日から5日にかけ、甲子園と西宮で正月大会を行った。1月3日は空襲警報があり、中止になったという。選手たちはどんな気持ちで戦ったのだろう。出征し、野球の道を断たれた仲間への思いを抱きながらの一投一打ではなかっただろうか。

「プロ野球70年史」(ベースボール・マガジン社)によると、5日間で8500人の観客が集まったという。空襲警報の合間をかいくぐるように球場に向かった人たちがいた。

関西地区の正月興行は戦後の50年まで行われた。

昔はシーズンとオフシーズンの区別が厳格ではなかった。51年、プロ野球界の"憲法"といえる野球協約が成立し、選手の権利保護などの観点から、球団が選手を稼働させられる期間は2月から11月まで、といった規定が追加されていった。それまでは常にオンシーズンだった、ともいえる。

ドーム球場もなかった時代に、12月、1月に興行が行われていたこと自体に驚かされる。今となっては何とむちゃな、ということになるだろうが、そこにはプロ野球をスポーツビジネスとして成立させるための必死の試行錯誤があった。

巨人を中心に現在のプロ野球に連なる組織のリーグ戦が始まったのが36年。野球といえば学生野球が中心で、プロ野球は旗色が悪く、経営的にも苦しかったらしい。巨人が初めて黒字を計上したのは41年だったという。しっかりした経営基盤ができ、シーズンのカレンダーが固まるまでのプロ野球は、寒かろうが暑かろうが、曲がりなりにも野球ができて、お客が呼べるなら時期は構わない、という姿勢で興行していたのだろう。

新型コロナウイルスの災いから立ち直る過程でも「シーズン」の概念の変更が迫られるかもしれない。選手会の合意などクリアすべきことが多く、実現性には乏しいとしても、これまでの枠組みにとらわれずに対応しなければならないのは間違いない。

時期と同時に、場所にもこだわってはいられなくなることが考えられる。

37年の年初の段階で、プロ野球がいわゆる「常打ち」でできる球場は東京の洲崎(現江東区)、上井草(現杉並区)と関西の甲子園。この年の5月に西宮球場、9月に後楽園球場ができたが、それらを合わせても、ごく限られていた。

そんな大昔のことを引っ張り出すのは適当ではないかもしれないが、コロナ収束後もしばらくはフランチャイズにとらわれず、野球ができるならどこでも、ということを考えておかなくてはならないのではないか。

メジャーではリーグを再編し、キャンプ地で開幕との試案もあった=共同

メジャーも、リーグを再編したうえで、アリゾナ、フロリダのキャンプ地に集結して開幕するとの試案があった。家族と長期にわたって離れることになりかない選手の不安は大きく、この案自体、消えたようだが、もし野球を始められるなら、なりふり構っていられないのは日米同じだろう。

最悪の事態を想定し腹を固める

来年に延期された東京五輪の開催可否について、ワクチン開発が前提条件になる、という識者の指摘もある。これはスポーツの完全な形での再開に向けての最も厳しいラインの一つになる。プロ野球も通常の形で開催するにはそれくらいのハードルが課される可能性がある。いずれ、選手が安心してプレーし、ファンも安心して観戦できる日がくるはずだが、それまでは最悪の事態を想定し「なんでもあり」と腹を固めておくに限る。

開催球場が流動的になった場合、収益の分配ルールも見直すことになるかもしれない。

戦後、リーグ戦が再開された46年はプロ野球の総収入の3割を全球団(当時は8球団)で均等に分け、残りの7割を成績に応じて分配したという。

分配方式に関してはいろいろ議論があるにしても、利益を業界全体で分ける、という共存共栄の考え方は今後、必須になるだろう。プロ野球全体として生き残るため、原点に立ち返るときかもしれない。

いまだトンネルの出口は見えない。だが、戦争に翻弄されながらも、立ち直り、復興した不屈の遺伝子は現在のプロ野球にも受け継がれている、と思いたい。

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