球場が呼んでいる(田尾安志)

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5連続敬遠に抗議の空振り 熱帯びた1982年最終戦

2020/5/5 3:00
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新型コロナウイルスの影響であらゆるスポーツの試合が止まり、代わってテレビで過去の好勝負、名場面がよく放送されるようになった。自分の現役時代でも印象深いシーンはいくつかあるが、中日に在籍していた1982年の大洋(現DeNA)とのレギュラーシーズン最終戦もその一つに挙げられる。

この年のセ・リーグの優勝争いはシーズン終盤までもつれ、中日は10月18日の最終戦に勝てば巨人を振り切って優勝、負ければ2位という剣が峰に立っていた。白熱のペナント争いに加えて、この試合では焦点がもう一つあった。

あと1本打てば首位打者争いで逆転

セの打率トップを走っていた大洋の長崎慶一(当時は啓二)さんを追っていた私は、最後の対大洋3連戦の初戦で3打数2安打、2戦目で5打数4安打と打ちまくり、長崎さんに9毛差と急接近。あと1本打てば逆転するところまできていた。

そうして迎えた最終戦。長崎さんは欠場し、全ては自分が打つか打たないかに懸かった中、相手バッテリーは徹底して勝負を避け、第1打席から4打席連続四球。第5打席も同じで、あっという間に3ボールになった。

横浜スタジアムの三塁側を埋めた中日ファンの怒声は耳をつんざくまでに膨れ上がり、グラウンドに物が投げ込まれる異様なムードに。この光景を見た私は4球目、意を決して外角に大きく外れる球を空振りした。一瞬の間を置いて沸くスタンド。次の球も空振りした。

1982年の大洋―中日最終戦で横浜スタジアムは中日ファンの怒声に包まれた(写真は2020年3月)=共同

1982年の大洋―中日最終戦で横浜スタジアムは中日ファンの怒声に包まれた(写真は2020年3月)=共同

はっきり言って、個人タイトルには全く興味がなかった。目標はチームの優勝のみ。勝ちに貢献できる選手でいることが唯一の理想だった。その観点でみれば、勝利、さらには優勝につながる出塁を得られる敬遠はもうけもの、と捉えられなくもない。そこでバットが届かない球をあえて振りにいったのは、ファンへの申し訳なさからだった。

この試合で中日は大量リードを奪い、優勝は確実なものになっていた。それでいて中日ファンがあれだけ憤りをあらわにしたのは、優勝どうこう以前に、真剣勝負というスポーツの根底にあるものがないがしろにされたと思ったからだろう。タイトル阻止の敬遠という、見どころのないシーンが生まれてしまったことへの申し訳なさが、無謀ともいえる空振りとなって表れた。無抵抗に一塁に歩くことで「納得ずくで敬遠を受け入れた」と思われたくない、という思いも強かった。

ファンが優勝の喜びに浸れて何より

抗議の空振りをすると、相手捕手の辻恭彦さんが「おまえ、勝たせてやっているのになんだ」と突っかかってきた。さすがに頭にきて言い返した。「僕、勝たせてくれって言ってませんよ」

そうして別の意味の緊迫感もはらむ中、中日の黒江透修コーチが私のところに飛んできた。「おまえは優勝にしっかり貢献したんだ。これ以上そういうことをするとファンを興奮させるから、とにかく次の球は振るな」。むなしさをぐっとのみ込んで6球目は見送り、またも一塁に歩いた。黒江さんが来ていなければ、最後も振って三振で終わるつもりだった。

最終的な打率は長崎さんが3割5分1厘、私は3割5分0厘1毛。繰り返しになるがタイトルを逃した悔しさはみじんもなく、私の打席で残念な思いをした中日ファンの皆さんが優勝の喜びに浸ることができたのが何よりうれしかった。

この時、監督として大洋を率いていたのが、今年4月に亡くなった関根潤三さんだった。結局、82年の大洋は5位に終わっているが、優勝はおろかAクラス争いにも絡めなかった中、長崎さんのタイトル獲得を後押しすることが大洋ファンへのせめてもの罪滅ぼし、という思いがあったのかもしれない。

4月に死去した関根潤三さんは生粋の野球人だった(ヤクルト監督時代の1988年)=共同

4月に死去した関根潤三さんは生粋の野球人だった(ヤクルト監督時代の1988年)=共同

当時のタイトルの価値は今以上に大きいものだった。ちょっといい成績を挙げれば年俸がぐんと上がる今と違って、当時は球団の財布のひもがずいぶん固かった。そこでタイトルを取れば年俸アップの好材料になる。

給料だけの問題ではない。タイトルホルダーともなれば箔が付き、名前が売れる。一度のタイトル獲得から引退後の第二の人生が開けるケースもあり、「タイトルを取れば一生食いっぱぐれがない」と言う人もいたほどだ。

あの時、もし私が大洋の監督だったら長崎さんを出場させていたと思うが、タイトルの持つ力を考えた末の、関根さんなりの苦渋の決断だったのだろう。引退後はともにフジテレビの解説者として「プロ野球ニュース」などでご一緒させていただいたが、あの試合について話すことはほとんどなかった。お互いに話さずとも伝わるものがあり、何のわだかまりもなくお付き合いをさせていただいた。

ひょうひょうとした持ち味で異彩

関根さんは82~84年に大洋、87~89年にヤクルトで監督を務めた。その時代の監督といえば、私が選手時代に仕えた近藤貞雄さんや広岡達朗さん、ほかにも「親分」大沢啓二さん、星野仙一さんら個性的な人が多かった。その中で、ひょうひょうとしたキャラクターの関根さんはかえって異彩を放っていた。当時の大洋、ヤクルトはどちらかといえば弱者のグループにいたわけだが、あのように「柳に風」の風采で選手を引っ張っていくスタイルは、一つの武器としてチームにマッチしていたように思う。

近年は体が弱られていたようで、解説の仕事から遠ざかっていた。ただ、「プロ野球ニュースに出ないといけない。月に1回でいいから出してくれないか」とご家族を通じてフジテレビに頼んでいたことを、番組スタッフから聞いたことがある。最後まで野球に情熱を注いだ生粋の野球人。野村克也さんとはまた違った「弱者の戦法」の心髄を、まだまだファンに伝えてもらいたかった。

(野球評論家)

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