連歌の達人に俗世の憂い 江戸期裁判記録で読む実像
文化の風

2020/5/1 2:01
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酒井抱一筆「集外三十六歌仙」画帖の「里村玄陳図」(姫路市立美術館蔵)

酒井抱一筆「集外三十六歌仙」画帖の「里村玄陳図」(姫路市立美術館蔵)

新型コロナの感染拡大でミュージアムは軒並み休館が続く。開館を待ち望みつつ、歴史と美術に関する興味深い話題を一つ。江戸初期の連歌師、里村玄陳(げんちん)(1591~1665年)について、五十嵐公一大阪芸術大学教授が最新の研究成果を交えて紹介する。

本能寺の変の一週間程前、愛宕山で連歌会が行われた。そして、ここで明智光秀が「ときは今あめが下しる五月かな」と詠んでいる。織田信長殺害の意思が込められていると見られている有名な歌だ。その連歌会に連歌師の里村紹巴(じょうは)が参加していた。紹巴は連歌界の第一人者で、多くの武将と交流のあった人物である。

その里村紹巴の孫に、里村玄陳という人物がいる。この玄陳も評価の高い連歌師だった。後水尾天皇の私撰集(しせんしゅう)「集外三十六歌仙」で、三十六歌仙の一人として選ばれている。挿図としてあげたのは、酒井抱一が描いた「集外三十六歌仙」画帖(がじょう)のうちの一図。ここに玄陳の姿が描かれている。抱一は玄陳に会ったことがないから、これは玄陳のイメージ画像である。晩年の玄陳を想像しているようだが、朝廷や幕府と関わりながら充実した生活を送った連歌師の姿がほのぼのと描かれている。

では、玄陳の実生活はどうだったのだろうか? 実は、京都所司代板倉重宗の裁判記録『公事留帳』に面白い記録がある。今まで紹介されたことのない記録だ。

慶立という老婆(ろうば)が亡くなった。その老婆は中江宗伯の後妻であり、結構な財産を持っていた。その宗伯はそれ以前に他界していて、宗伯と慶立の間には子どもがいなかった。ただ、宗伯と先妻の間には娘がいて、その娘が里村玄陳の妻だった。つまり、玄陳の妻と慶立に血のつながりはない。しかし、慶立は玄陳に書き置きを残した。つまり遺言書である。その内容に従い、玄陳は慶立が残した財産を処分して慶立を弔った。

ところが、そのことに対して訴訟が起きた。慶立の妹の息子に北野休好という人物がいた。つまり、慶立と休好には血のつながりがある。その休好が次のように京都所司代に訴え出たのだ。慶立は「自分が死んだら銀五百目と家屋敷を妙心寺に寄付しなさい。それ以外は、皆で分けなさい」と言っていた。しかし、里村玄陳がそれを無視したというのである。

玄陳にとって、これは全く迷惑な話だった。書き置きに従って慶立の財産を処分し、慶立の弔いを済ませた。その後で、慶立の遺産の一部をよこせと訴えられたからだ。

江戸時代、この種の裁判は出入筋のうち金公事と呼ばれていたものである。現在の民事裁判にあたる出入筋の場合、京都所司代は双方での内済、つまり示談でそれを解決させた。京都所司代は内済のための方向性を示していたのである。

では、ここでの京都所司代の判断はどうだったのかというと、玄陳の言い分を全面的に認めた。決め手となったのは、慶立の書き置きだった。慶立は生前に財産を妙心寺に寄付したいと言っていたかもしれない。しかし、その証拠がなかったからである。

いま、この裁判で興味深いのは、後水尾天皇に認められるほどの連歌師だった里村玄陳にも日常の生活があり、そこには金銭をめぐるトラブルもあったという点である。

この裁判の経緯が分かる『公事留帳』という史料には、これ以外にも京都所司代板倉重宗による興味深い複数の記録が含まれている。私は近世日本絵画史を専門にしているが、その分野の記録もある。妙心寺天球院障壁画を描いた狩野山雪が、義弟の借金返済のため投獄された事例。狩野一門の絵師として二条城障壁画を描いた狩野甚之丞の妻と弟子との間の相続をめぐる事例などがある。

里村玄陳や狩野派の絵師たちにも日常生活があり、時としてトラブルが裁判沙汰に及ぶ場合があった。それが彼らの創作活動に何か影響を及ぼしているのだろうか。『公事留帳』の記録を読むと、そんな興味が湧いてくる。

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