「令和」1年とコロナ危機 疫病禍は万葉の昔にも

風紋
2020/5/3 2:00
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緊急事態宣言を受けて閑散とする銀座4丁目交差点付近(4月8日、東京都中央区)

緊急事態宣言を受けて閑散とする銀座4丁目交差点付近(4月8日、東京都中央区)

もはや、夢のなかの出来事のようである。平成が終わり、元号が「令和」に改まった日――。たった1年前のことなのに、あの高揚を忘れそうだ。列島はいま、新型コロナウイルスの脅威に凍りついている。

誰もが未体験の不条理だが、人類と感染症とは切っても切れぬ仲である。じつは、新元号ゆかりの「万葉集」の時代にも、古代日本で最大級のパンデミックが起きているのだ。

当時、平城京で大流行したのは天然痘である。痘瘡(とうそう)ウイルスによるこの疫病の死亡率は、かつて50%にも上った。

医史学者の富士川游(ふじかわ・ゆう)が明治末期に書いた「日本疾病史」によれば、天然痘が史書に初めて登場するのは735年。大宰府から流行が始まったとする「続日本紀」の叙述だ。以後、1838年までに、記録にあるだけで58回の流行をみた。

しかし、実際にはもっと前から天然痘は日本に入り込んでいたらしい。たとえば、藤原不比等の謎の死(720年)もその可能性があるという(酒井シヅ「病が語る日本史」)。

やがてパンデミックの様相を呈したのが、737年の大流行である。不比等の子たち「藤原4兄弟」も全員が落命し、朝廷は機能停止に追い込まれていく。

当時は海外との往来がとても盛んだった。朝鮮半島の新羅とも交流があった。そのルートで感染が広がったのではないかと「病が語る――」は推測する。

「令和」の典拠である万葉集「梅花の宴」の舞台は、まさに、こうした外交の一大拠点である大宰府だった。この国際色豊かなイベントは、パンデミックの7年前に開かれている。グローバリズムはいつも、感染症と背中合わせなのだ。

人々は、しかし、危機のなかでも海外に目を向け、日本的なものとの融合を試みた。「万葉集」はその大きな成果だ。社会が災厄を越え、天平文化を花開かせたことはたしかである。

天然痘はそれからも世界をさいなみ続けたが、種痘の普及によって徐々に勢いを失い、1980年、世界保健機関(WHO)が撲滅を宣言するに至った。これは人類が制圧できた唯一の感染症である。

こういう過去を顧みるだけで、感染症との闘いの難しさがわかる。感染症のなかで生きてきた人々の胸中がわかるのだ。

いま、しばしば「ウイルスに打ち勝つ」という言葉を聞く。しかし新型コロナは、そんな生易しい相手だろうか。時間をかけて、大きな破綻を避けながら、なんとか共生していくしかないかもしれない。

東洋文庫版「日本疾病史」の解説に、医師で育児評論家として知られた松田道雄は、日本人が「疫病とどんなに絶望的な抵抗を繰り返してきたか」と記して歴史に思いをはせている。「日本の文化は、この苦悩を通じてつくりあげてこられた」。至言である。

(大島三緒)

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