東大寺の四天王立像、まなざしに宿る動静の美
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厳しいまなざしは何を見据えているのだろう。天平彫刻の最高峰とされる国宝「四天王立像」。安置されている東大寺戒壇院(奈良市)の戒壇堂が保存修理のため、7月から約3年間の予定で調査と工事に入る。四天王立像は東大寺ミュージアムに移され、7月23日から展示室で公開される。
東大寺境内の西辺にある戒壇堂は755年(天平勝宝7年)に建立された。鑑真和上が完成間もない大仏殿の前に「戒壇」を設け、聖武太上天皇をはじめとする400人余りに戒を授けた翌年、戒壇の土を移して造営した。
初の大規模修理
「戒」とは僧侶になるものが守るべき規範のこと。九州・太宰府の観世音寺、下野国(栃木県)の薬師寺とともに「天下の三戒壇」といわれ、僧侶となるには三戒壇のいずれかで受戒する必要があった。創建当時は金堂や僧坊などがあったが、江戸時代までに3度の火災に遭い、現在の戒壇堂は1732年に再建。大規模修理は初めてという。
2018年の大阪北部地震で四天王立像の一つ、多聞天の右手に載っていた木製の「宝塔」が落下した。東大寺の今西良男統括技監は「大きな壁がなく、柱と柱の足元をつなぐ横材もないため地震に弱い。修理の目的は耐震補強だが、屋根のふき替えや壁のしっくいの塗り替えもしなければいけない」と語る。

四天王は仏の敵を退ける守護神だ。日本に多くの四天王像があるなか、文芸評論家の亀井勝一郎は「四天王の美は、戒壇院を頂点とする」(大和古寺風物誌)と評した。眉を寄せて口を真一文字に結んだ持国天、口を開けて怒りをあらわにする増長天が動ならば、憤怒を内に秘めた広目天と多聞天は静。いずれも唐風の甲(よろい)をまとい、邪鬼を踏みつけて立っている。
唐の造形美今に
粘土で形作った塑像は4体とも像高160センチほど。当初は鮮やかな彩色がなされ、その一部は表面に残っている。一瞬の動きをとらえた身のこなしにぎこちなさはない。京都大学人文科学研究所の稲本泰生教授は「唐の仏像様式がリアルタイムに伝わってきており、造形の成熟度が高い。当時の唐の中央でつくられていた仏像の形式は現在、ほとんど残っていない。東アジアの人体造形の最高峰が奈良にある」と語る。
創建時の戒壇堂に安置された四天王像は金銅像で、現代には伝わっていない。いまの四天王立像は8世紀の中ごろにつくられた。最近の研究では東大寺法華堂の執金剛神(しゅこんごうじん)や日光、月光両菩薩(ぼさつ)とともに、法華堂本尊の不空羂索(ふくうけんさく)観音の護法神として法華堂にあったことがほぼ確実視されている。四天王立像の作者は不明だが「群像としての統一感からみても全体を束ねるプロデューサーのような人物がいたに違いない」(稲本教授)。
戒壇堂の四天王立像で最も人気があるのは広目天だろう。奈良の仏像を撮り続けた写真家、入江泰吉が初めて撮影したのも広目天だった。深いまなざしに憂愁を感じ、魅了されてきた人も多いに違いない。
稲本教授は「私も若いころはそうだった。ただ、近年の研究では、射すくめるようなまなざしは『衆生の行いを観察する』という四天王の務めを表現したものであるとされる。広目天が持つ巻物と筆は人々の行いを記録し、上司である帝釈天に報告するために使う」と指摘する。
新型コロナウイルスによって世情が混乱するいまなら、感染症と闘う人々の振る舞いを観察しているのだろうか。あるいは困難を克服した先の未来を見据えているのか。
戒壇堂は新型コロナの感染拡大を受け、5月末まで拝観を停止している。年内には工事の方針を決め、21年度に着手する。今西技監は「修繕後も建物の形はいまと同じ。次の世代に本物として残していくことが我々の使命」と話している。
(岡本憲明)

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