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岸惠子(4)敗戦

天皇陛下の写真で実感 直立不動でマッカーサーと

空襲の翌日。親族の安否を尋ねて父と一緒に横浜の廃虚を歩き、無数の死体を見た。

空襲で焼けた横浜市街(1945年)=共同

川に浮いた土左衛門。黒光りした焼死体。それらがトラックの荷台に積み上げられてゆく。その都度、父が私の目を手で覆ったが、それでも私は見てしまった。前日まで生きていた人たちのすさまじく変わり果てた亡骸(なきがら)を。

高台にある掃部山(かもんやま)公園に着くと父が「これが井伊直弼の銅像だ」とつぶやいた。その銅像よりも、私は掃部山を含む野毛山から海までが見渡せる街全体が平べったい瓦礫(がれき)となって燃え続けている眺めの方にむごたらしさを感じた。

空に腐った柘榴(ざくろ)のような黒い太陽が血の色を刷き、瓦礫から生き物が焼けただれた異臭が漂う。戦争がもたらす実態をまざまざと見せていた。

敗戦を実感したのは8月15日の玉音放送ではなかった。9月27日、赤坂の米大使館で昭和天皇がGHQ(連合国軍総司令部)の最高司令官ダグラス・マッカーサーと対面した写真を見た時だった。

ラフな開襟シャツのマッカーサーの隣で正装した天皇陛下は直立不動の姿勢だった。「日本は負けた」と思った。

食糧難もひどかった。親戚に農家がない私の家では母の訪問着が僅かな米やジャガイモに替えられていた。一緒に列車で買い出しに行った私は、人々が背負っている食料を慌てて車窓から捨てているのを見た。闇物資の摘発を逃れるためだ。無情に捨てられた食料は線路脇に待機した人たちが奪ってゆくに違いない。

ある時、買い出しの収穫がなくて母としょんぼり歩いていると、米兵を満載したジープが脇に止まり、チョコレートの包みを私にくれようとした。母の硬い視線に躊躇(ちゅうちょ)している私を見て、米兵は缶詰が入った紙袋を道端に投げて笑いながら「バーイ」と走り去った。夢中で駆け寄った私の頬に母の平手が飛んだ。

「だって……」

「いけません」

私は米兵が投げた紙袋を見ず、前だけを見つめて大股の速足で歩いた。意味の分からない涙が頬をぬらした。

戦後の復興は早かった。ガード下にうずくまる戦争孤児たちに白い粉末の殺虫剤DDTがかけられ、そこここに熱気が渦巻く闇市が立った。

「いざ来いニミッツ、マッカーサー。出てくりゃ、地獄へ逆落とし……」と歌っていた日本人はあっけなくマッカーサーになびいた。変わり身はあまりにも早かった。

我が家ではサツマイモの茎が主菜のおかゆを父が端然とすすっていた。私はチョコレートケーキを食べた夢を見て胃けいれんを起こした。「胃がビックリして空風呂を炊いたんだろう」と父は言った。

学校で堂々と蓋を開けた同級生のお弁当が白米に青菜まで添えてあるのを見て、私はふかしたサツマイモだけのお弁当を蓋で隠して食べた。

混乱に乗じて巧みに財を成した者もいれば、父のように清廉を貫いた人もいる。そんな父を清々(すがすが)しいと誇りに思ったり、頼りないと思ったりした。

父は栄誉栄達に関心がなく、多趣味に明け暮れた人だった。県庁にテニス部を創設し、岸杯という対抗戦を主催した。琵琶を弾き語り、三味線や小唄もうまかった。顔形はそっくりなのに、美声のDNAは私を通過してしまった。躾(しつけ)に厳しかった母とは正反対で小言を言われたこともない。けれど私が学校に上がる前から仮名は全部、かなりの漢字も教えてくれた。

(女優)

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岸惠子

女優の岸惠子さんは横浜市で生まれ育ち、戦時中には空襲に遭い九死に一生を得ました。高校時代、同級生と一緒に見学に行った松竹大船撮影所でスカウトされてデビュー。佐田啓二さんと共演した映画「君の名は」で一躍国民的スターとなります。フランス人映画監督イヴ・シァンピさんと結婚して渡仏してからも離婚や辺境への旅など波瀾万丈の人生が続きます。

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