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岸惠子(2)疎開

「ミミズ事件」で仲良しに 地元の子のいたずらに負けず

疎開した厚木の荻野小学校には私を含めてクラスに女性3人の都会っ子がいた。3人とも成績が良かったので、それがしゃくに障るのか、地元の同級生によくからかわれたり、いたずらされたりした。

疎開前の小学生時代(後列中央) 

勤労奉仕の時間があり、私たちは畑のあぜ道にズラリと座らされた。背負った籠に先生がサツマイモをどさりどさりと入れてゆく。それを近くの農家まで届けるのだ。

号令とともに皆が一斉に立ち上がったが、都会育ちの3人はスッとは立てない。私はお尻が1センチも上がらなかった。ヤンヤとはやし立てられ、先生が「よっこらしょ」とおどけながら手を引っ張ってくれた。よろよろと歩く私は背中にチリリと焼けるような痛みを感じて悲鳴を上げた。

「先生、背中に何かいる」

先生は私の背中に手を突っ込むと、一匹の大きなクロアリをつまみだした。

「誰だ。この子の背中にアリンコを入れたのは」

「おいらだ」

ガキ大将が悪びれもせずに即答したのがおかしくて、先生は「コラッ」とその子の額を小突いただけで終わった。

また別の日には雨でぬかるんだ田んぼで麦踏みをした。時々、ミミズがにょろにょろと地面から出てくる。私以外の2人の都会っ子がキャーと悲鳴を上げた。「都会もんの意気地なし」とはやし立てる男子生徒の顔の前で、私は大きなミミズ2匹を両手でつかんでブラブラさせた。

「ミミズくらい平気よ」

皆がポカッと口を開けた。

父が釣り好きだったので、私は餌のミミズを釣り針に刺して褒められていたのだ。

いたずらはしても皆、気の良い子供たちだった。ミミズ事件以来、少しばかり尊敬されたのか、私たち都会っ子とみんなは仲良しになった。

小6になり、私は女学校入試のために疎開先から横浜へ戻った。自宅近くにフェリス(戦時中は横浜山手女学院)という名門校があったが「敵国のミッション・スクールなどとんでもない」と県立横浜第一高等女学校(現在の横浜平沼高校)を受験した。

高倍率だったが、合格した決め手は時間内に論文を書くこと。テーマは『大東亜戦争について』。作文は得意なのですんなりと合格できた。

敗戦の気配が色濃くなってきても、大本営はひるむことなく日本軍の"戦果"を高らかに放送し続けていた。

1945年3月10日、東京は敗戦を刻印するような大空襲で焼け野原となった。5月29日には私の街、横浜も集中的な無差別爆撃で廃虚と化した。そして8月6日がやって来る。6日の次は9日、広島と長崎に原子爆弾が落とされ、日本は戦争に負けた。

横浜空襲の朝は素晴らしい五月晴れだった。けたたましい警報とともに真っ青な空はウンカのように押し寄せるB29という銀色の怪鳥で覆いつくされた。朝日を浴びてキラキラと光る飛び魚のような爆撃機は美しくさえあった。

「あ、きれい……」とつぶやいたのを覚えている。それはほんのつかの間のこと。

B29の大群は身の毛もよだつ恐ろしい本領をむき出しにした。家々や人間を木っ端みじんに破壊する殺人兵器はあたり一面を阿鼻叫喚(あびきょうかん)の生き地獄にした。その頃、科学は命中すると広範囲を焼き尽くす恐ろしい「焼夷(しょうい)弾」を発明していたのだ。

(女優)

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岸惠子

女優の岸惠子さんは横浜市で生まれ育ち、戦時中には空襲に遭い九死に一生を得ました。高校時代、同級生と一緒に見学に行った松竹大船撮影所でスカウトされてデビュー。佐田啓二さんと共演した映画「君の名は」で一躍国民的スターとなります。フランス人映画監督イヴ・シァンピさんと結婚して渡仏してからも離婚や辺境への旅など波瀾万丈の人生が続きます。

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