東京フィル元部長 「音楽のパトロン」になりたかった

ビジネスの転機で背中を押してくれたシンフォニー、大切なライフイベントを彩ったクラシック音楽を愛する各界のリーダー層が、自身にとって忘れられない一曲と共に人生を語ります。クラシック音楽のプロデュースを手掛けるアーモンド代表取締役の松田亜有子さんは、東京フィルハーモニー交響楽団の広報渉外部部長を務めるなど長年音楽の世界に身を置いてきました。新型コロナウイルス感染拡大防止のためにコンサートが延期を余儀なくされるなど苦境に立ち向かっています。もともとは一般企業に勤めたかったという松田さんを音楽の仕事へ導いたのは、ある作曲家との出会いでした。
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私はこれまで、新潟のコンサートホールや東京フィルハーモニー交響楽団で企画制作や広報の仕事に携わってきました。その過程で、「本当の先進国は、経済大国であり文化大国でもある。この両輪で回っている」という政治評論家の竹村健一さんの言葉に感化され、アートマネジメントをする側ももっと日本の経済・社会構造を知らなければならないと考えるようになりました。それで一度はクラシック音楽の世界から離れ、企業の社会的責任(CSR)活動や事業改革などの支援にも携わりました。
ビジネスの世界で過ごした6年間を経て再び東京フィルに戻って5年、自分がやりたいことがより明確になり、クラシック音楽の公演やイベントなどをプロデュースする会社を2018年に起業。音楽を通して国と国、人と人がつながっていけるような場をつくりたいと日々奮闘しています。
引っ越す先々で「その地域一番」のピアノの先生に師事
大学では音楽学部でピアノを専攻しました。といっても、演奏家になりたいと思ったことは一度もないんです。ドビュッシーのピアノ曲「喜びの島」は大学時代、私に大きな影響を与えた人と、今につながる仕事へ導いてくれた曲です。
わが家はサラリーマンの父が転勤族で、生まれたのは山口県下関市ですが、その後各地を転々としました。両親の教育方針は、「教育だけは一流を」というもの。子どもの頃からピアノを習っていて、転勤する先々で、母が見つけてきた「その県や市で一番」の先生にレッスンを受けていました。
母の教育熱はすさまじくて、夏休み中は朝起きてピアノの練習をしないと、部屋に鍵をかけられました。家族旅行に行くときも、1日練習を休んだら指が動かなくなると言って、宿泊先にピアノがあるかどうかを調べるんですよ。中学に入るまで、母は「ピアノ練習したの?」「練習しなさい」っていう日本語しか知らないんじゃないの、と思うくらいでした(笑)。
高校は下関に戻ってきて、進学校に通っていました。周りは上位の大学を目指していたし、私もそのつもりでした。それが2年生のとき、指導を受けていたピアノの先生がソリストとして出演するオーケストラの演奏会を聴きに行ったことで一変します。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の演奏が終わると、下関市民会館の満席の会場がシーンと静まりかえって、そこにいる全員の心が一つになったように感じました。「これほどまでに人の心を動かす音楽って一体何だろう?」。それを知りたくなって、音楽学部に進むことを決めました。
進学したのは、長崎の活水女子大というキリスト教系の歴史ある学校。西洋音楽はキリスト教文化の中で育まれたものなので、カトリック教会の数が全国で最も多く、異国情緒あふれる長崎の街は学ぶのにうってつけの環境でした。
「音楽とは何かを知りたい」早朝から勉強漬けの日々
大学時代は図書館にある音楽に関する本を1冊残らず読みました。音楽に限らず、作曲家が影響を受けた文学作品や歴史の本、外国語で書かれた音楽の本にもくまなく目を通しました。毎朝寮を出て6時38分発のバスに乗り、7時に開門するのと同時に学校へ入って勉強するという生活を卒業まで続けました。
ピアノも1日最低6時間は練習していました。例えばビジネス書をいくら読んでも、MBAを取りましたと言っても、現場を知らないコンサルタントが経営改革なんてできないですよね。それと一緒で、知識だけ深めても音楽を知ることはできません。ドビュッシーの音楽を知るためには、五線譜に書かれた音符と向き合い、奏でて、聴いていただく。音符を立体化して「相手に届ける」という行為があるのとないのとでは全く違います。
なおかつ、ドビュッシーを演奏するに当たっては、同時代のマラルメ、ヴェルレーヌといった19世紀に活躍した詩人の存在は欠かせません。「ドビュッシーはこのヴェルレーヌの詩にある鐘の音を表現したんじゃないだろうか」といったように、一人の音楽家を通じて、詩の世界も知ることができました。
とはいえ二十歳そこそこで、音楽とはなんぞやということがそうそう分かるはずもありません。それでも毎日必死で楽譜や本に向かう中、あるとき図書館で出合ったのが、作曲家・三善晃さん(1933~2013)の『遠方より無へ』というエッセーでした。
こんなことを言うのは大変恐れ多いのですが、三善さんも私と同じ壁に向き合っていると感じました。音楽とは何かという問いもそうですし、クラシック音楽というものは、西洋において400年以上の歴史を通って普遍的な価値を持つに至り、その間にはさまざまな宗教戦争や民族戦争で多くの血が流れてきました。対して日本ではそうしたプロセスは一切なく、ある日突然キリスト教世界の音楽が入ってきた。つまり、受容の仕方が全く違うわけです。日本人である三善さんが、西洋で生まれた音楽の書法を使ってどう音をつづるのか、なぜつづるのか。そうしたことへの葛藤が本には書かれていました。私がずっと追い求めていたものに出合えた気がして、魂が震えました。
音楽を支える人になりたいのに…就職試験に全敗
一方で私は卒業したら一般企業に就職するつもりでいました。わが家は母もバリバリのキャリアウーマンで、年子の弟も一足早く大企業に就職。一人だけ優雅にピアノや音楽の勉強を続けていくなんてありえません。それに私は、大企業で働いてたくさんお金をためて、音楽のために寄付したいと思っていました。アメリカのカーネギーホールを造った実業家のカーネギーさんのように、素晴らしい音楽を支える側、パトロンになりたかったんです(笑)。
ところが就職活動では、ありとあらゆる企業を受けてことごとくすべってしまった。そんな大学4年生のとき、尊敬する三善晃さんが、芸術顧問を務める新潟県の長岡リリックホールで「三善晃 響き合うピアノ」というプロデュース公演をやることを知りました。オーディションに合格すると三善さんのレッスンを受けられて、さらに公演にも出演できるというもの。「これに合格したら、きっともう1年ピアノの勉強をしなさいと神様が言ってくれているんだ」と思って、挑戦することにしました。

理屈抜きで心引かれるドビュッシーの旋律
そのときに弾いたのが、ドビュッシーの「喜びの島」です。ドビュッシーは、小学生のときに初めて弾いて以来、なぜかすごく気が合ったんです。ドビュッシーの曲には、ドレミファソラシの7音の音階ではなく、1オクターブを5つの音で構成する「5音音階」という技法が用いられています。日本を含めたアジアの音楽も、もともとは5音音階なので、ドビュッシーの東洋的な響きに、何となく遠いつながりを感じるのかもしれません。
オーディションに向かう前、電話で話した母からは「今までの人生で一番うれしかったことを思い浮かべて弾いたらいいわよ」と言われました。いざホールのステージに立つと、目の前に並ぶ審査員の真ん中に、三善さんが座っていました。ずっと会いたかった人が目の前にいる。私にとってこの瞬間が、人生最高の喜び――そう思って弾いたら、合格したんです。
プロデュース公演には縁あって翌年も出演し、その際に三善さんから、長岡リリックホールの事業部で企画制作や広報の職員を募集することを教えてもらいました。英語が必須ということだったので、アルバイト生活をしながら猛勉強。無事採用されました。
コンサートホールの事業部って何でもするんですね。主催公演の企画はもちろん、宣伝やチケットの販売、企業へ協賛のお願いにも行きます。そのときにさまざまな市民の方たちと触れ合う中で、「多くの人にとって芸術は遠い存在なんだな」ということを実感しました。
多くの人がクラシック音楽の素晴らしさを身近に感じ、スポンサーは芸術に対して寄付をすることにメリットを感じる……。そんな、文化、社会、経済の3つのトライアングルが響く国になるよう努めたいという思いが芽生えました。それが、今の仕事につながっています。


(取材・文 谷口絵美=日経ARIA編集部、写真 鈴木愛子)
[日経ARIA 2020年2月17日付の掲載記事を基に再構成]
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