JR尼崎脱線事故15年 「あの日」の記憶、今を問う
JR福知山線脱線事故は25日で15年となった。新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、JR西日本主催の追悼慰霊式は事故後初めて中止に。遺族らはそれぞれの場所で犠牲者を悼み、再発防止を願った。事故現場の慰霊施設「祈りの杜(もり)」ではJR西の長谷川一明社長が安全への誓いを新たにした。


乗客
106人が死亡、JR発足後最悪の鉄道事故
真っ暗
の中、叫び続けて18時間
近畿大法学部1年だった山下亮輔さん(33)は先頭車両に乗っていた。つり革を握り、音楽を聴きながら小説を読んでいた。午前9時すぎ、強い揺れに襲われ、窓の外を見ると地面が迫ってきた。気づけば真っ暗な車内で下半身が挟まれていた。必死で「助けてくれ」と叫んだ。救助されたのは、事故発生から18時間後だった。

血
まみれの乗客、国内初の「トリアージ」
午前10時ごろ、当時、兵庫県災害医療センターの救急医、小林誠人さん(51)が現場に到着すると、マンションに電車が巻き付くように衝突していた光景が目に飛び込んできた。「まるで映画を見ているようだった」と記憶する。兵庫医大病院の看護師だった千島佳也子さん(40)も現場に駆けつけた。
「痛い」「助けて」。叫び声が響きわたる。血まみれの乗客が電車から担架で次々に運び出された。けがの程度を区分する「トリアージ」を国内の事故現場として初めて導入。負傷者に「赤」や「黄」のタグをつけ緊急度の高い人から救急搬送させた。小林医師は午後4時まで休むことなく、救命活動を続けた。最後の生存者の救出は日付が変わった26日午前7時6分。脱線事故は小林医師を災害医療に導く大きなきっかけとなり、「救急医の役割が強く求められるようになった」と思うようになった。千島さんも災害派遣医療チーム(DMAT)の一員として、事故や災害に向き合う。

後を絶たない事故
教訓どう次世代に
脱線事故後も多くの命が失われる事故が繰り返されてきた。9人が死亡した中央自動車道笹子トンネルの天井板崩落事故(12年)、長野県軽井沢町のスキーバス転落事故(16年)などがある。「なぜ、犠牲になったのか」。失われた命への無念さや悲しみは深く、負傷者の心の傷は消えることはない。それでも歳月の流れは、いや応なしに事故の風化と向き合わざるを得ない現実を突きつける。事故を知らない次世代にどう伝えていくか。
関西大の安部誠治教授(公益事業論)は言う。「事故を知らない若者も少なくなく、事故の記憶を伝えていくことが重要。社会全体で15年前の4月25日に脱線事故があったということに思いをはせる契機にしてほしい」

(大畑圭次郎 三浦日向)
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