京都の映画は異業種が創る 製作や上映、人材育てる
とことん調査隊

2020/3/31 2:01
保存
共有
印刷
その他

かつて「日本のハリウッド」と呼ばれた京都。製作本数は減少しているが、異業種から参入したいくつかの企業が映画文化を活気づけているらしい。どんな会社なのだろうか。

東寺近くのミニシアター、京都みなみ会館(京都市南区)を訪ねた。昨年、スクリーンを1つから3つに増やし移転したばかり。運営するのは巖本金属(同)という金属リサイクルの会社だという。

館長の吉田由利香さんが歴史を教えてくれた。旧館は1963年に開業。封切館やピンク映画館を経て、閉館寸前にまで追い込まれた88年、同社がオーナーとなった。「このあたりで最後の映画館だったので、文化貢献の意味合いがあった」と吉田さん。当初は別の会社に番組編成を委託し、オールナイト上映などの企画で根強い人気を集めた。

しかし2010年にこの会社が撤退し、同社直営となった。同年入社した吉田さんはその2年後、24歳で館長に就任。オールナイト上映の復活や若者向けチラシの製作で動員数を年々伸ばしている。

異業種が映画館を運営することはままあるが、同社は製作にまで進出してしまった。14年、有名俳優と同姓同名で大手配給会社に勤めていた江守徹さんを製作事業の本部長として招き入れた。江守さんは「事業開始にあたり、大きな理念の一つに監督や俳優の育成を掲げた」と語る。

例えば江守さんがエグゼクティブ・プロデューサーとして配役から関わった「トイレのピエタ」(15年)は、ドキュメンタリーで注目された松永大司監督による初の長編劇作品。その後、松永監督は「ハナレイ・ベイ」(18年)でも高い評価を得た。

江守さんが企画プロデューサーを務め、在日コリアン家族の奮闘を描いた「焼肉ドラゴン」(18年)などは社員がエキストラ出演したり、セット作りで協力したりした。江守さんは「エンドロールに社名が出ることで認知度が高まり、本業の人材確保の一助になっている」と胸を張る。

シマフィルム(京都府舞鶴市)も異色の映画会社だ。社長の志摩敏樹さんは大学生時代に映画業界志望だったが、卒業を機にあきらめて家業の建機レンタル会社、志摩機械(同)を継いだ。思いは断ち切ったが、地元では映画好きとして有名だった志摩さん。相米慎二監督の「風花」(01年)への出資を打診され、再び映画の世界にはまった。今も二足のわらじを続ける。

「ゼロから映画を作りたい」と森崎東監督に企画を持ち込んだのが、舞鶴を舞台にして高い評価を得た「ニワトリはハダシだ」(04年)。以降、「堀川中立売」(10年)のように京都の地名を題名に入れたシリーズなど、意欲作を作り続けている。4月には破天荒なミュージシャン、友川カズキさんに迫った記録映画「どこへ出しても恥かしい人」が関西で公開となる。

さらに「映画館をむげにしてはいけない」と07年、閉館した映画館を再生し福知山シネマ(京都府福知山市)を開業。08年に舞鶴八千代館(同舞鶴市)も引き継いだ。

京都市内でも17年に出町座を開き、19年には再生手続き中の京都シネマを継承。映画祭「東京フィルメックス」のスポンサーにもなった。志摩さんは「苦行の連続」と笑うが、さながら映画界の再生請負人。文化の担い手としての気概に満ちる。

京都文化博物館の森脇清隆映像・情報室長は「みなみ会館も出町座も作り手目線のある館。若い監督の作品をかけることで育成し、その監督がさらに良い作品を作るという流れが生まれている」と評する。4月、東京のミニシアター「アップリンク」が京都市に進出する。館同士の競争は激しくなるが、ファンが隠れた名作と出合う機会は増えそうだ。(西原幹喜)

保存
共有
印刷
その他

電子版トップ



[PR]