フラワーアーティスト柿崎さん 「宇宙人」と父が応援

著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はフラワーアーティストの柿崎順一さんだ。
――ご両親は生花店を営んでいたそうですね。
「私の父はもともとサラリーマンでした。高度経済成長で人々の暮らしが豊かになるなかで、花を家庭に届けるビジネスが広がると脱サラし、生花店を始めました。フラワーデザインの雑誌『フローリスト』を創刊の頃から購読するなど、新しい情報を積極的に取り入れていました」
「店のデザインにもこだわっていました。最初は地元の旅館の土間を借りて商売していましたが、私が10歳を過ぎた頃には近代的なファッションビルの中に店を構えました。ネオンサインを表に飾るなど当時としてはおしゃれな構えでした」

――花について教わる機会は多かったのですか。
「父は年末年始も関係なく、花を管理する温室や店にこもって黙々と作業をしていました。家業を手伝いながら、花束の作り方などを学びましたが、背中から教わることが多かったです」
「それ以上に、自然の草花に触れる機会をたくさんつくってくれました。小さい頃から近くの山に父と二人でよくでかけ、山菜採りなどをしていました。それは私が成人してからも変わらず、2009年に父が亡くなる直前まで続きました」
――10代の頃、フラワーアーティストの道に進むことを決意したそうですね。
「もともと芸術を糧に生きたいという思いはありましたが、強く決意したきっかけの一つは私が専門学校の頃の出来事でした。地元の長野県内でコマーシャルの撮影があり、セットの花を父が請け負いました。父はうれしそうに私を仕事場に連れて行きましたが、東京から来た映像ディレクターに散々けなされてしまった。自分はもっと広い世界で戦って、見返してやろうという思いが生まれました」
――生花店を継いでほしいと言われませんでしたか。
「父は継いでほしいと思っていたはずでしたが、『おまえは宇宙人のようでよく分からない。外の世界で思う存分活躍してこい』と後押ししてくれました」
「ただ自分の活動について直接褒めてもらったことがなかったので、『あまり良く思っていないのでは』と内心感じていました。父の死後、私の作品の写真集を地域の会合に持って行って自慢げに見せていたと人づてに聞きました。父の思いを知り、うれしい気持ちになりました」
――ご自身も子どもを持ち、親となりましたね。
「2人の子どもがいますが、自分の思いも寄らない挑戦をしています。一人は歌手として活動した後に芸術の世界を志し、もう一人は海洋生物学や博物館学を学んでいます。父が私のことを『宇宙人』と表現した気持ちはよく分かります。走り続ける子どもたちを静かに見守りたいです」
◇ ◇ ◇
現代芸術に花取り入れる
柿崎順一氏の作品は、現代芸術に花を取り入れているのが特徴で、植物を人の営みや生き物、景色に見立てることが多い。

今回の取材では、「豊年虫(ほうねんむし)をいける」というテーマで2つの新作を披露してくれた。豊年虫とは老舗旅館・笹屋ホテル(長野県千曲市)の別棟で、登録有形文化財にも指定されている。取材の場となったほか、展覧会の会場などとして柿崎さんの創作活動を支えてきた場所だ。

「モロッカンイドリスの王冠」という作品は洋風の王冠をモチーフにしており、ラナンキュラスのめしべが王冠の宝飾に当たる。「Beyond Pain」は中央に配した2つの赤いダリアを日の丸に見立て、日本人の苦しみを表現するとともに、人間が生きていくことの苦しみも表したという。
(生活情報部 荒牧寛人)
[日本経済新聞夕刊2020年3月31日付]
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