競歩・山崎、足跡に悔いなし 北京で日本初五輪入賞
長く日本競歩男子の第一人者として活躍した山崎勇喜(36、富山陸協)がこのほど現役生活に終止符を打った。かつて世界のトップに肉薄したパフォーマンスは後輩たちの範となるものだった。
15日に石川県能美市で行われた全日本能美大会20キロに出場した山崎は早くも序盤から出遅れた。足を前に振り出す勢いは鈍く、呼吸は荒い。全盛時のリズミカルな歩きは影を潜め、タイムは完歩した53人中最下位の1時間46分18秒だった。

だが、表情には充実感がにじんだ。「ゴールすることが最低限の目標だった。ほっとしている」。現役最後のレースで歩型違反による失格はするまいとの思いを体現しきったところに、元第一人者の誇りがにじんだ。
早くから日本競歩界を背負って立つ逸材として注目されてきた。富山商高時代の2002年に日本選手権20キロで1時間20分43秒をマーク、00年シドニー五輪代表の柳沢哲らを抑えて優勝した。五輪には04年アテネから3大会連続で出場。順大時代に出たアテネは50キロ(16位)と20キロ(途中棄権)を歩き、08年北京も2種目に出て20キロは11位、50キロでは7位入賞を果たした。
05年世界選手権50キロの8位入賞を含む国際大会の実績とともに、ファンの脳裏に刻まれているのが悲運のレースだ。07年に大阪で開かれた世界選手権50キロ。長居陸上競技場近くの1周2キロの周回コースで最後の1周を残した48キロ手前のことだった。規定の周回数に達したと勘違いした係員が誤って競技場に誘導。そのままゴールしたものの周回不足からコース離脱とみなされ、途中棄権扱いになった。
翌年の北京五輪の代表に決まる入賞圏の8位以内を争っていたことから、運営側への激しい批判と山崎に対する同情論が渦巻いた。実際は疲労で後半に失速し、誘導ミスがなかったとしても「入賞はできなかっただろう」と山崎は振り返っているが、それでも「順位もつかず、歩型違反でもない失格(途中棄権)はすごく悔しい」と無念さをあらわにしていた。
救済措置がなかったことにもめげず、08年の日本選手権20キロと同50キロを制し、両種目で北京五輪の代表権を獲得。北京の50キロで日本競歩史上初の五輪入賞となる7位に入り、逆境をものともしない勝負強さを示した。
悪夢の07年世界選手権も今となっては良き思い出のようで、能美大会後の引退会見では「自己紹介の時はこのレースのことを言っている。僕といったら大阪の世界選手権の事件かな」と笑った。
苦難の絶えない現役生活だったことも会見で明かした。「摂食障害があり、過食と拒食を繰り返した。鬱状態の期間もいっぱいあり、何度も心が折れた」。それでも競技をやめなかったのは「世界一になりたい」思いが強かったから。「その夢だけはぶれなかった」
09年にマークした50キロの自己ベストの3時間40分12秒は、同年の世界3位の記録。五輪と世界選手権の表彰台には届かなかったが、日本の1番手として世界のトップに迫る活躍は、19年世界選手権50キロ優勝の鈴木雄介、16年リオデジャネイロ五輪50キロ銅メダルの荒井広宙(ともに富士通)ら多くの後輩に影響を与えた。日本陸連の今村文男五輪強化コーチは「ロールモデルになるようなアスリートだった」と功績をたたえる。
今後は所属する陸上自衛隊の仕事に専念する。一方で「五輪に3大会出たキャリアを生かしたい。競歩に育てられたので競歩に恩返ししたい」と指導者への興味も口にする。不屈の精神で幾多の困難を乗り越えてきた生きざまは、後に続く者に勇気をもたらすことだろう。
(合六謙二)