東京パラで勝負、共生も発信 陸上車いす 大矢勇気さん
未来像

Tokyo2020
関西タイムライン
2020/2/19 2:01
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おおや・ゆうき 1981年兵庫県西宮市生まれ。高校在学中に脊髄を損傷し、下半身不随に。2005年に車いす陸上の競技を始める。19年11月のパラ陸上世界選手権の車いす男子100メートルで4位に入り、東京パラリンピック出場を決めた。

おおや・ゆうき 1981年兵庫県西宮市生まれ。高校在学中に脊髄を損傷し、下半身不随に。2005年に車いす陸上の競技を始める。19年11月のパラ陸上世界選手権の車いす男子100メートルで4位に入り、東京パラリンピック出場を決めた。

■2019年にアラブ首長国連邦のドバイで行われたパラ陸上世界選手権で車いす男子100メートルに出た兵庫県西宮市出身の大矢勇気さん(38)が4位に入り、東京パラリンピック代表に内定した。

4位なら代表になれる決勝のレースで4位に入れたのは良かったが、表彰台に立てなかった悔しさもあった。得意のスタートから自信を持って力強くこごうと考えたが、両脇にいた米国の選手が速く、焦って手が滑ってしまった。

技術もパワーも改善できるし、スタートももっと強化したい。まだ伸びしろはある。19年末に軽量化した車いすを新たに入手。これまでよりスタートでの推進力も増した。

この競技の魅力は練習を積めば記録が向上するところ。勤務先(ニッセイ・ニュークリエーション=大阪市)の協力もあり、19年2月からは午前中に仕事を終え、午後を練習に充てられるようになった。新しい車いすに慣れるためにも練習を重ね、東京パラリンピックで強い米国勢を破って金メダルを取りたい。

■子供のころからスポーツが好きだったという。

小中学校の時はわんぱくで元気な野球少年だった。16歳の時、高校に通いながら働いていたビルの解体現場で8階の高さから転落、脊髄を損傷し下半身が不随に。自暴自棄になって死ぬことしか考えていなかった。母や兄弟、学校の先生、病院の方々の励ましでなんとか生きてこられた。

競技を始めたのは05年。知人に誘われ、全国障害者スポーツ大会の兵庫県予選に生活用の車いすで出場し、優勝した。全国大会に進むと、周りは競技用の車いすばかり。次々と抜かれて敗れた。悔しくて、母に無理を言って競技用の車いすを買ってもらった。

競技を始めてからは障害者になってもスポーツができる喜びや楽しみが感じられ、自信もついた。母はその後、練習にも付き添ってくれた。

陸上車いす競技の魅力は「練習を重ねれば記録が良くなること」と語る

陸上車いす競技の魅力は「練習を重ねれば記録が良くなること」と語る

■競技を始めて約15年で初めてパラリンピック代表の座をつかんだ。その道のりは険しいものだった。

12年のロンドンパラリンピック出場を目指したが、出場予定だった選考会の当日、11年7月10日に母が亡くなった。寄り添って近くにいたかったので、悩んだ末に大会を棄権した。半年間は落ち込んで、何もかもが手に付かず、練習どころではなくなった。

そんな私を今度は兄が励まし、練習に付き添ってくれるようになった。兄は以前、競輪選手を目指しており、競輪の知識があった。同じ車輪の付いた道具を使うスポーツで車いすとは共通点がある。兄の指導で一気に成績が上がった。ただ、14年に床ずれで皮膚が壊死(えし)。座骨に細菌が入ってしまい、骨を削る手術をした。競技に復帰できたのは17年4月。この間に開催されたリオデジャネイロのパラリンピックはテレビで観戦し、スタートやこぎ方など、出場選手の動きを研究した。

■東京パラリンピックで活躍し、パラスポーツの認知度向上につなげたいという。共生社会の実現などに果たす役割も大きそうだ。

まだパラスポーツは知られていないことが多い。講演会などに登壇する際は必ず競技用の車いすを持っていき、実際に乗ってもらっている。段差があると大変なことなども体験してもらい、バリアフリーの大切さも伝えている。

10年前と比べれば、バリアフリーも進み、暮らしやすくはなった。だが、まだ課題もある。例えば駅前は移動しやすくても、駅から少し外れるとつまずいて転びそうになる場所も多い。梅田や難波など繁華街ほどそうした傾向が強い。こうした事実は当事者が伝えないと、他の人には伝わらない。競技で好成績を残すことや講演会を通じて、今後も情報を発信していきたい。

(聞き手は関根慶太郎)

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