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トム・モリス 「ファー&シュア」でナイスショット(上)

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2020/3/2 3:00
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19世紀半ばに英セントアンドルーズに生まれ育ったトム・モリス。息子のトム・モリス・ジュニアはゴルフの全英オープンに4連勝してチャンピオンベルトを永遠に獲得したことで知られているが、父のオールド・トム・モリスはこの世界最古のトーナメントである全英オープンの開催に尽力し、自身も4勝を挙げ、最後の優勝はいまだに破られていない最年長記録である46歳のときだった。しかもオールド・トムはギアメーカーであり、コースデザインも行い、グリーンキーパーとしても大変な功績を残しているスーパーゴルファーだった。そんなオールド・トムのゴルフの基本を練習にも取り入れよう。(日本経済新聞出版社「書斎のゴルフ VOL.45」から)

オールド・トムは1821年に生まれ、1908年、86歳で亡くなった。身長は165センチで、当時のスコティッシュとしては平均だった

オールド・トムは1821年に生まれ、1908年、86歳で亡くなった。身長は165センチで、当時のスコティッシュとしては平均だった

荒涼とした原野が続くスコットランド。T・S・エリオットの長編詩、「荒地」をほうふつとさせるこの地ならではの情景が続く。秋だというのに山も見えず、木立がないために冬のような寒々しい色合いだ。厚い灰色の雲のもと、セントアンドルーズにようやくたどり着く。

クラブハウスは薄い土褐色の趣のある建物で、野原のようなコースを凜(りん)と見渡している。しかし、原野とはいっても、ゴルフの聖地、セントアンドルーズ・オールドコースの芝は、深々とした緑をたたえていた。美しいダークグリーンだった。

「これほどの緑のコースにしたのは、トム・モリスの努力のたまものだったんだ」

僕は息を大きく吸い、そしてゆっくりと吐いた。北海からの潮風が海の匂いを運んでくる。驚くほど静かで、プレーをしている人がいないかのようなコースだった。

ゴルフのすべての仕事を高水準で

トム・モリスは今から190年以上の昔、1821年にこの地に生まれた。日本ではゴルファーでさえなじみのない名前かもしれないが、スコットランドでは今でも神様のように敬われている人物である。

全英オープンに4度優勝した卓越したプレーヤーであることはもちろん、長い間その会場となったプレストウィックGCを造り上げたコースデザイナーであり、ビルダーでもあった。セントアンドルーズをゴルフの聖地として誇りあるコースに磨き上げ、グリーンのホールに街の土管を採用して、それが世界基準となってしまったともいわれるグリーンキーパーでもある。

セントアンドルーズのグリーンのホールが崩れやすいことから、街の土管を埋めることを思いついたトム。このことから、この土管の大きさがホールの世界基準となってしまったといわれる。もしもこの土管が大きかったらと思う選手は大勢いることだろう

セントアンドルーズのグリーンのホールが崩れやすいことから、街の土管を埋めることを思いついたトム。このことから、この土管の大きさがホールの世界基準となってしまったといわれる。もしもこの土管が大きかったらと思う選手は大勢いることだろう

さらにはゴルフショップを営み、クラブやボールを自分で作ってしまったギアメーカーでもある。キャディーを教育し、メンバーをレッスンしてハンディをつけ、マッチメーキングまで行った。それこそ、ゴルフプレーに必要な仕事のすべてを、高水準でこなした世界初の人物なのである。

今我々が常識と思って自然に、しかも楽しくプレーできていることは、すべてトム・モリスがその規範を作ったからともいえるのである。今なおたたえられているのは当然のことなのだ。

そのトムが生まれたとき、セントアンドルーズのコースはすでに存在していた。ジェントルマンたちがヒッコリーシャフトのウッドでフェザリーボールを打っていたのだ。

当時クリークと呼ばれていたアイアンはボールを切り裂くために、使用するゴルファーは少なかった。ルートアイアンと呼ばれるサンドウエッジのようなクラブだけは使われており、これでバンカーや轍(わだち)から脱出を図っていた。

フェザリーボールは職人が1日にたった3個しか作れない貴重で高価なものであり、ドライバーより値段が高かった。よって一般の市民はゴルフをすることなどできなかったが、拾ったボールで朝早く数ホールプレーしたり、街中で酒瓶のコルクを打ったりして楽しんでいた。

織物工員であり郵便配達人であったトムの父、ジョンもそうだったし、トムも子供の頃はそうしてゴルフらしきものを楽しんでいた。

アルバイトキャディーをしていた少年時代のトムは自慢げに言っていたものだ。

「紳士がブッシュに打ったボールを見つけるのは得意だった。チップをたくさんもらったな」

キャディーになり賭けゴルフで稼ぐ

トムは14歳となり、学校を卒業すると、フェザリーボールを作っていたアラン・ロバートソンに弟子入りした。7人兄弟の下から2人目のトムが上の学校に行ける余裕などなく、見習いとして働くしかなかった。アランはボールメーカーであり、史上初めてのプロのキャディーでもあった。キャディーをすることで収入を得ていたのだ。

工房ではアランの他に彼のいとこであるラング・ウィリーがいたが、フェザリーボールを作る仕事はとにかく大変だった。

牛革を水に浸し軟らかくして裁断、ヒョウタン型にした2片を縫い合わせて裏返しにし、小さな穴からボイルしたシルクハット1杯分の羽毛を突きキリでギュウギュウに詰め込む。最後は胸にハーネスをつけて自分の全体重を使って押し込むのだ。そのときにキリが滑って足や腕の筋肉を突いてしまい、大ケガをする職人もいたという。

フェザリーボールは乾くと羽毛が膨張してパンパンに張る。インパクトでの音はやさしかったが石のように硬かった。頭や胸に当たって死ぬ人もいたぐらいだ。

2枚の革を張り合わせたところからいえば、野球などのボールとさして変わらず、それが小さくなったものと考えればいいが、ゴルフにおいてはやや卵形であったことが問題だった。パットが真っすぐ転がりにくかったのだ。

トムはボールを作るだけでなく、アランに見込まれてスイングを教え込まれた。グリップを習い、高低差を打ち分けるスイングを覚えた。

当時、フェアウエーウッドはどれもスプーンと呼ばれたが、トムはいきなりそのスプーンでフェアウエーにナイスショットを放ったという。さらにバンカーから脱出する術も学び、夏の夕方にアランと練習ラウンドを行った。そこでは小さな賭けが行われた。

「賭けをしないプレーなど、ゴルフではない」

それはアランの信条だった。アランは紳士たちのキャディーをしたが、しばしばフォーサムのゲームとなり、キャディーは紳士のパートナーとなってプレーもした。ペアが交互に1個のボールを打ったが、良いアドバイスをしたり好打で貢献したりして勝てばチップがたくさんもらえた。

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