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逆境に学んだコービー、皆が認める「世界一」選手に

スポーツライター 丹羽政善

テレビ出演したシャキール・オニールは、26日に事故死したコービー・ブライアントの思い出を語り始めると、大粒の涙が頬をつたい始めたにもかかわらず、それを拭うことなく話を続けた。

コービーをトレードで獲得したときのレーカーズ・ゼネラルマネジャー(GM)で、米プロバスケットボールNBAのロゴのモデルともなっているジェリー・ウエストも同じ番組に出演すると、声をつまらせ、言葉が出なくなった。

彼らには、どんなコービーの表情がよみがえっていたのだろう。うれしいときは笑みを、怒っているときは怒りを、悲しいときは涙を。感情を殺してプレーするアスリートは少なくないが、コービーは逆。喜怒哀楽を隠さなかった。

10年のNBAファイナルで記者会見に臨むブライアント氏

そのうちの一つ、飾らない彼の笑みに初めて接したのは、1997年にクリーブランドで行われたオールスターゲーム2日前のインタビュー・セッションでだった。

その年、新人だったコービーは「ルーキーチャレンジ」という、オールスターのイベントに出場。参加者は、オールスター選手も含めて全員がホテルの大広間に集まり、指定されたテーブルでメディアの取材を受けるのが恒例で、本戦以外のイベントに出場する選手の取材機会が先に設けられ、その後、オールスターのメンバーと入れ替わる、というのがパターンだった。

マイケル・ジョーダンの周りには常に二重、三重の人垣ができ、数年経つと、コービーも同じようにメディアの輪に埋もれるようになるが、当時はまだ、普段の取材でも1対1で話を聞くことは難しくなかった。

あのときも終盤になると、コービーは一人、テーブルで手持ち無沙汰にしていた。「少し話を聞かせてもらってもいい?」と話しかけると、「もちろん、もちろん!」とにっこり。ここにどうぞ、とでも言わんばかりに、空いている椅子をジェスチャーで勧めてくれた。

エピソードを面白おかしく

どういう流れでそんな話になったのかは記憶にない。しかし彼は、高校の時のあるエピソードを面白おかしく話し始めた。

「ある試合後、帰ろうと思って自分の車に戻ったら、フロントガラスとワイパーの間になにか挟まっていたんだ。何だと思う?」

駐車違反の切符か何か?

「いや、だって高校の駐車場だもん」

パーティーのチラシとか?

「それも違う」

じゃあ……?

「最初、暗かったから、気づかなかったんだ。座ってエンジンをかけようと思ったら、何かが挟まっていた。外に出て確認したら、女の子の名前と電話番号が書いてあった。裏を見たらなんと、ヌード写真だった(笑)」

その女性の?

「多分、そうなんじゃないかな。電話してって書いてあったよ」

電話したの?

「まさか!」

もう、その頃からストーリーテラーとしての資質があった。計算のない接し方にも、魅了された。

その後も名前の由来など話は続いたが、やがてコービーが、ソワソワし始める。視線が定まらない。どうしたんだろうと、コービーが見ている方に顔を向けると、ちょうどオールスターゲームに出場する選手らが、会場に入ってきたところだった。

「うわぁ、ドキドキする」。コービーはすっかり、一人のバスケットファンになっていた。無理もない。部屋に貼られたポスターの選手が、すぐそこを歩いている。誰だって、気もそぞろになる。

胃の中にチョウがいる感じ?と聞くと、「そう! まさにそんな感じ」とコービー。

「butterflies in my stomach(胃の中にチョウがいる)」というのは、あこがれの人を前にしてドキドキしている――そんな緊張感の比喩表現だが、そうなると、もう話を聞くどころではなくなった。そもそも、オールスターの選手が現れたということは、ルーキーに話を聞く時間の終了でもあったのでレコーダーを止めると、コービーは「インタビューの途中だったのに申し訳ない」と謝って立ち上がった。

壮観な光景を一緒に眺めながら、「この中だったら、誰に話を聞きたい?」と問うと、間髪入れずに「マイケル!」と答えたコービーは近くを横切ったジョーダンから、視線を動かそうとしなかった。

飾らない笑顔も魅力の一つだったブライアント氏

筆者は当時、米インディアナ州に住んでおり、地元ペイサーズというより相手チームを中心に取材をしていた。遠征に帯同する相手チームの番記者は多くて2~3人。インディアナポリスは地元メディアも少なく、そうすると、反比例してロッカーにいる選手が増えるのが常なので、試合前の取材がしやすかった。人気チームだったレーカーズも例外ではなく、シャック(シャキール・オニール)でさえ、1人でロッカーにいることが多かった。

もっともそれはそれで、厄介なときもあった。97年3月のこと。試合前、レーカーズのロッカーへ行くと、一番奥にシャックが陣取っており、それはまるで牢(ろう)名主のようだった。ロッカーの入り口でコービーがトレーニングから帰ってくるのを待っていると、手招きされた。

「俺に話を聞きに来たのか? それともコービーに話を聞きに来たのか?」

そこでコービーとは言えないので、「シャキールさんです」といって会話が始まったが、取材というより雑談。そもそもシャックが、いろんな話を聞いてくる。

「日本でもヒップホップがはやっているはずだけれど、日本語でラップするのか?」

もちろん、と応じると、「今度、CDを聞かせてくれないか?」。

それで後日、シャックにCDではなくカセットテープを渡したこともあったが、たわいもない話をしていると、コービーが戻ってくる。それを横目で捉えたのをシャックは見逃さなかった。

「コービーと話すことを許可する」

彼もまた憎めなかったが、ゆっくりとコービーの元へ向かい、「少し時間ある?」と聞くと、オールスターのときに話したのを覚えていたのか、二つ返事でまた、横にあった椅子を勧めてくれた。1年目は一事が万事、そんな調子だった。

翌年は2月の終わりにレーカーズが遠征でインディアナを訪れた。そのときもコービーに話を聞き、「マイケル(・ジョーダン)が引退する前に、ブルズに勝って、タイトルを獲得したい」という話を聞いた。「それが僕らの役目だと思う」

ただ、それが実現することはなかった。当時のレーカーズはプレーオフには駒を進めるも、NBAファイナルにたどり着くことはなく、その一因として、コービーとシャックの確執が挙げられるようにもなっていた。

確かに1年で空気が変わっていた。

その取材の時、試合後に近くのレストランで食事をしていると、レーカーズの選手らがそろって入ってきた。こっちに気づいたシャックがやってきて、店側がテーブルを用意するまで雑談をしたが、一行の中にコービーの姿はなかった。

スタメンの一人で、ディフェンスも非凡だったエディ・ジョーンズとトイレで一緒になった時、「コービーは?」と聞くと、「あいつはまだ21歳になっていないから」と答えたが、そこはバーではない。ファミリーレストランである。お酒は飲めなくても食事なら問題ないはずだが、コービーが遅れてやってくることもなかった。

しかし99年、ブルズ時代に6度の優勝を誇るフィル・ジャクソンがヘッドコーチ(HC)に就任すると、レーカーズは99~2000年シーズンから3連覇を達成する。結果としてコービーとシャックの仲は改善しているとも映ったが、それはチームが勝っていることで、かろうじてパワーバランスが保たれていただけのようだった。

もっともそれを肌で感じることは難しかった。その3連覇でコービーを取り巻く環境はすっかり変化を遂げた。もう1対1で話を聞くことは難しくなり、取材陣みんながコービーとの時間を狙っている。試合前、彼をロッカーで見かけることも少なくなった。

それでも、なんとかインタビューができないかと、地元メディアでさえほとんど行かない、ロサンゼルスから車で2時間以上かかるベーカーズ・フィールドという砂漠の街で行われたプレシーズンゲームに足を延ばしたこともあった。

記者が少ないのは狙い通りだったが、そのときもシャックに捕まった。ロッカーに入った瞬間、暇そうにしていたシャックと目が合い、また手招きをされる。もっともあの時も、コービーが試合前のロッカーに現れることはなく、それもまた、チームメートの反感を買う一因となっていたのかもしれない。

チーム解体前夜に起きた事件

やがてついにバランスが崩れる。シャックは結局、03~04年シーズンが終わると、契約延長を求めたがかなわず、ヒートへ移籍した。HCのジャクソンもチームを去り、04年に出版した「The Last Season: A Team in Search of Its Soul」という本では、「コービーはコーチできない」と批判した。

事件が起きたのは、そんなチーム解体前夜のことだ。

03年6月、コービーは膝の手術で訪れたコロラド州イーグル群にあるリゾートホテルで女性従業員をレイプしたとして告発されたのである。クリーンなイメージだっただけに、現場には大挙してメディアが押し寄せた。7月18日、正式に性的暴行罪で告発されると、コービーはその日にステイプルズ・センターでバネッサ夫人を伴って記者会見を開き、合意の上だったと無罪を訴えたが、その言葉は力を持たなかった。

デビューから3連覇ぐらいまでは、怖いもの知らず。自由に振る舞えば振る舞うほど、どこかであつれきを起こしていたが、絶大な人気が、それを許した。しかし、あの事件を境に彼がそれまで築き上げたものが音を立てて崩れた。

会見からおよそ2カ月半後、ホノルルでレーカーズのトレーニングキャンプが始まると、再び全米のメディアが、ハワイに集結した。当時、数年おきに行われていたレーカーズのハワイキャンプは、土地柄か、のんびりとした時間が流れ、記者の数も少なく、取材をするには絶好の機会だった。

ところが、当然といえば当然だが、その年は違った。記憶している限り、レーカーズは一度だけ、コービーの取材機会を設けている。しかし、会見ではなく囲み取材だったため、至近距離でコービーにテレビカメラが向けられ、カメラのフラッシュがたかれる。

責め立てるような質問が続く中で、彼が消え入るような声で漏らした言葉が、今も耳に残る。「これからどうなるのか、恐ろしい」。人懐っこい笑みは、表情のどこを探してもなかった。

あのとき、チームメートはそんな様子を遠巻きに見つめていた。冷ややか、というほどでもなかったが、来るときもコービーはチャーター機に乗っておらず、コービー自身が距離をとっているようにもみえた。膝のリハビリのため、練習も別メニュー。物理的にコービーがチームメートと絡む場面が限られた。

残留するもチーム成績低迷

レーカーズはあのシーズン、カール・マローン、ゲイリー・ペイトンというスター選手を加え、ドリームチームを作った。絶対的な優勝候補筆頭だったものの、ファイナルでは、地味ながら質の高いチームを作り上げたピストンズに完敗している。

解体は必然で、すでに触れたようにシャックがヒートへ移籍したのは、レーカーズがフリーエージェント(FA)だったコービーと再契約する見通しとなったことと無関係ではないが、一方でコービーはクリッパーズとの契約を考えていた。

それを止めたのは、当時、グリズリーズのGMだったウエストだったというのは、冒頭で紹介したテレビ番組で、ウエスト本人が初めて明かしている。そのときのクリッパーズのオーナーは、その後、リーグから追放されるドナルド・スターリング。ウエストはスターリングの本性を知っていたのである。

そうしてコービーは残留したが、シャックとHCのジャクソンだけでなく、マローンやペイトンも去ったレーカーズは翌シーズン、コービーがNBAに入ってから初めてプレーオフを逃している。その後、2シーズンはプレーオフに出場したが、いずれも1回戦負け。対照的にレイカーズを去ったシャックは、移籍したヒートで05~06年シーズンに再びファイナルを制覇している。

コービーがいなくても勝てた、という見方はさらにコービーを傷つけ、06~07年シーズンが終わると、コービーは公然とチームのフロントを批判し、トレードを要求するに至っている。

07年10月。この年のキャンプもハワイで行われたが、直前までコービーが参加するかどうか分からなかった。おそらく、あのときキャンプをボイコットしてトレードを勝ち取っていたとしたら、今回の死で、あれだけ多くの人が悲しみにくれることはなかったのではないか。レーカーズファンにさえ、アンチ・コービーがいたのである。

20代前半で3連覇した頃と比べれば、あまりにも対照的なキャリアとなったが、それで終わらなかった。コービーの、これからも長く語り継がれるであろうレガシーは、むしろそこから始まっている。

07~08年シーズンは久々にファイナルに出場。その時はセルティックスに敗れたものの、翌08~09年シーズンもファイナルに出場すると、マジックを下してコービー自身、4度目のタイトルを手にする。さらに翌年、2年前に敗れたセルティックスに雪辱を果たし、連覇。コービーをめぐる評価は一変した。

何があったのか。

08年2月のオールスターで久々に話ができた。彼はその年の北京五輪に米国代表として参加することを明らかにしていたが、その意を聞いた。

背景について簡単に触れると、米国代表はその頃、圧倒的な戦力を誇りながら、国際試合で勝てなくなっていた。04年のアテネ五輪では、グループ内で2敗。予選こそ突破したが、準決勝でアルゼンチンに敗れると、屈辱の銅メダルに終わっている。雪辱を期した06年に日本で行われた世界選手権でも準決勝でギリシャに敗れ3位だった。

重なる米代表と自身の境遇

コービーはいずれの大会にも不参加だったが、早々に代表に名乗りを上げたのはなぜか。すると彼は「アメリカが最強だということを、改めて証明しなければいけないと思う」とその理由を説明した。確かにあの2大会では負けたが、米国が弱いとは誰も思っていないのではと向けたが、コービーは首を横に振った。

「いや、相手がもう怖がっていない。失うものがない、という気持ちで向かってくるし、こっちは逆に負けてはいけないという立場だから、気持ちが守りに入っている」

さらには、スペインやアルゼンチンの選手が普通にNBAで活躍するようになって、「実力差も縮まっている」と話し、続けている。「スペイン(06年世界選手権優勝)やアルゼンチン(04年五輪優勝)は、ジュニア時代から一緒にプレーしているから、その点でも、彼らにはアドバンテージもある」

だからこそ勝って威信回復を図りたい、というのがロジックだったが、もちろん、理由はそれだけにとどまらなかった。米国代表の置かれた状況は、彼自身の境遇そのもの。よって、「自分自身についても同じことがいえるのか?」と問うと、コービーはうなずいている。

「その通り。自分が証明しなければならないことも残っている」

もはや昔のようにジョークを交えた会話にはならなかったが、彼の成長を目の当たりにした。

当時のレーカーズは他と比べて圧倒的な戦力を有していたわけではない。だが、コービーを中心にまとまり、30代になった彼のプレーは円熟味を増し、逆境に学んだ彼は誰もが一目置く存在になっていた。

若い頃は、俺が世界一のバスケット選手だと認めろと迫った。その原動力が20代前半で成し遂げた3連覇だとしたら、その意識が、目的ではなく結果に変わったのが30代前半の連覇だった。そうなって、アンチさえ、振り向いた。

レーカーズの本拠地周辺で、事故死したブライアント氏を追悼する市民(1月26日、米ロサンゼルス)=共同

10~11年シーズン以降はほとんどコービーもレーカーズも取材していないので、何かを書ける立場にはないが、最後に彼の試合を取材したのは、16年3月23日のこと。すでに引退が決まっており、敵地のフェニックスにもコービーのファンがあふれていたが、正直、衰えたという印象は持たなかった。まだ37歳。あと2~3年はプレーできるんじゃないかとも映った。

しかし、もう限界だったのかもしれない。試合後、あいさつをしようとロッカーへ行くと、コービーはガラスで仕切られたトレーナールームにいた。そのときの光景は今も目に焼き付いている。

1月に右肩の古傷を再発させていたが、右肩はアイシングで固定され、両膝、両足首にも氷が巻かれたその姿は、かろうじてコートに立っている――そんな現実を伝えていた。

00年にペイサーズとの間でファイナルが行われた時、コービーは第2戦で左足首を捻挫し、第3戦を欠場した。重症だったが、第4戦で復帰すると、シャックのファウルアウト後のチームを支え、オーバータイムでの勝利に貢献した。

試合後、コービーはこう言っている。「21歳なんで、回復が早いんだ。まだ若い、若いって、いろいろ言われるけど、こんなに若くて得をしたことはなかった」

そんな彼が最後は、満身創痍(そうい)。時計の針は確実に進んでいたのである。

結局、治療に時間がかかり、また、あまりにも多くのメディアが彼を待っていたので、あいさつを諦めてロッカーを出た。すると、廊下で相手サンズのブランドン・ナイトがスニーカーを持って、待っていた。おそらくコービーにサインをもらおうと出待ちしていたのだろう。

あのあとナイトは、かなり待たされたはずだが、コービーが出てきた瞬間、ドキドキしながら、歩み寄ったのではないか。97年のオールスターでコービーがジョーダンの姿を見つけ、目を輝かせたときのように。

(敬称略)

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