一人前になれた気がした「しゃぶしゃぶ」 寺脇康文さん
食の履歴書

映画やドラマでは熱血漢の刑事や家族思いの父親の役、情報バラエティー番組では司会と多彩な顔をみせてきた俳優の寺脇康文さん(57)。役者としての階段を上るのを意識した場面には、しゃぶしゃぶがあった。
食の記憶をたどると、駄菓子とすしに行き着くという。生まれは大阪。実家のすぐ近くには駄菓子屋があった。家族ぐるみの付き合いで、かわいがってくれた店主のおばちゃんは「やっちゃん、これ食べてき」。親が後で代金を払っていたのだろうが、幼い身には「お菓子食べ放題の夢のような場所」。甘いチョコレートやアメ、サイダー味のシュワッとした食感のアイス。心躍らせて駆け込んだ日々を思い起こす。
実家はすし屋だった。「握るのはおふくろ。女性職人って当時は珍しかったと思います」。すしを握る母の姿はキリッとして格好良かった。「テラのところ行けばすしを食べられるぞ」と友達が集まる。マグロにイカ、エビ。おやつ代わりのすしはキラキラと輝いていた。誇らしかった。
「小さい頃にぜいたくしすぎたんですかね」。俳優の長い下積み時代には食べるのがやっと。アルバイト先に選ぶのはもっぱら賄い付きの居酒屋やスーパー。しゃぶしゃぶ店の賄いで口にする肉が一番のごちそうだった。
門をたたいたのは三宅裕司さん主宰の劇団「スーパー・エキセントリック・シアター(SET)」。食えない時代の頼りはやはり先輩だ。後に一緒に独立して演劇ユニット「地球ゴージャス」を結成する岸谷五朗さんと稽古場の三宅さんを観察。座長が帰るタイミングを見計らって視界に入り込み「何か食べていくか」の一言を引き出した。
若手二人は内心してやったり。「おともします」と連れて行かれたのが三宅さんが通うすし屋だった。「好きなもの食べていいぞ」と言われ、岸谷さんが「じゃあウニ」。すぐに三宅さんから「真っ先にウニはだめだろ。まずは白身から」と突っ込まれるのを見てヒヤヒヤ。本当は「自分もウニ」と続こうとしていたとはおくびにも出さず、三宅さんの言う通りに注文した。
座長は雲の上の存在。稽古場では言葉をなかなか交わせないが、一緒に食べていると、話を聞ける貴重な時間だ。ごちそうしてもらうばかりだったが、後に一人前になってようやく三宅さんを東京・赤坂の和食店に招くことができた。土鍋の鯛(たい)めしに季節の刺し身。岸谷さんと「座長、きょうはおごらせてください」と頭を下げた。三宅さんは「おまえらにおごってもらうとはなあ」。少し近づけた気がした。

岸谷さんとSETを巣立つと決めたとき、決起集会のつもりで連れだって食事に出かけた。まだユニットの名前すらつけていない二人だが、あまり考えずにふらりと入ったのが東京・新中野あたりのしゃぶしゃぶ店だった。
鍋をつつき、独立したらあんなことをやってやろう、こんなことはできないと熱を込めて話していたとき突然、岸谷さんが箸を止めて言った。「ちょっと待て。俺たち自分の金でしゃぶしゃぶ食ってる」。いつも先輩におごってもらい、カップラーメンで食いつないできた。それが人並みにしゃぶしゃぶを食べていることにハッと気づいた。
仕事が入り、役者として名前を覚えられはじめ、次のステージに向かう自分たち。期待と不安の中で口にした肉は一人前を意識した格別の味だった。
しゃぶしゃぶは思い出の場面によく出くわすメニューだ。ずっと憧れていて、後に「相棒」シリーズで長く共演した水谷豊さんと念願の初顔合わせの時がそうだった。ドラマ「刑事貴族2」で共演が決まり、引き合わされたのがしゃぶしゃぶ店。集合時刻の1時間前から正座で待った。水谷さんとあいさつを交わした後は、かけられる言葉に緊張で「はい」くらいしか返せない。料理の味は全く覚えていない。
令和2年の今は次の舞台の稽古のまっただ中。稽古場ではほとんど食べ物を口にしない。食べると集中力が切れる気がして、駆け出し時代から続ける習慣だ。だからこそ舞台や稽古を終えてから何を食べようかと考えるのは楽しい。「『食』ってごほうびですよね。『おいしい』と感じられるのは生活が充実している証拠。今していることが間違っていないと確認できる時間なんです」。舞台仲間と次は何を食べに行くのだろう。
絶品、博多の鮭明太

寺脇さんが福岡で行きつけにしているのが「味市春香 なごみ」(電話092・411・1647)。舞台公演で博多を訪れた時に紹介されてから通い続ける。「これは絶品。ご飯何杯でもいけそう」と話す看板メニューが、ほぐしたサケとめんたいこが絶妙に絡み合う「鮭明太」(しゃけめんたい、380円・消費税別)。店主の渡辺太さんが考案して工夫を重ねた味で、クリームうどんやピザなどアレンジメニューも人気だ。
他に「脂ぎっていなくてパリッとした食感がいい」と必ず頼む品が「カリカリ豚足」(450円)だ。一人でもしばしば訪れ、カウンターで隣に座っている客に話しかけたり、渡辺さんの妻の誕生日には一緒に祝ったりする。飾らない人柄で店の雰囲気にすっかりなじんでいるという。
最後の晩餐
とにかく漬物が好き。ミョウガ、キュウリ、白菜、一番は水ナスかな。だから白いご飯に漬物セットで十分。漬物というか野菜が好きになった原点はおふくろが我が家風にアレンジした山形の「だし」。高校時代は「ヤマガタ」と呼んで、こればかり食べていたんです。
(河野俊)
[NIKKEIプラス1 2020年1月25日付を再構成]
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