京阪電鉄、戦前に「大阪-名古屋」幻の新線計画
とことん調査隊

関西タイムライン
2019/12/24 7:01
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大阪から名古屋を鉄道で移動する場合、急ぐなら東海道新幹線、安さなら近畿日本鉄道の特急を選ぶだろう。2020年3月14日、近鉄の新しい名阪特急「ひのとり」がデビューし、競争は激しくなる。実現すれば鉄道史を塗り替えたもう1つの鉄道の構想があった。文献や有識者にあたって路線の姿を探った。

昭和初期、大阪―名古屋を結ぶ鉄道は国鉄の東海道線と関西線。好景気を背景に旅客、貨物の需要は増えたものの、増発には限界があった。私鉄は近鉄の前身、参宮急行電鉄と伊勢電気鉄道(のち関西急行電鉄)が大阪、名古屋から伊勢神宮を目指して建設を進めていたが、名阪が結ばれるのは先の話だった。

鉄道省出身で京阪電気鉄道の始祖と言われる当時の太田光熙(みつひろ)社長が立ち上がった。大津市から名古屋市までの「名古屋急行電気鉄道」を新設し、大阪―名古屋を2時間で結ぼうともくろんだ。

京阪がなぜ名古屋? 謎を解くには創業の経緯や鉄道事情を振り返る必要がある。

京阪は1910年、天満橋(大阪市)―五条(京都市)を開業した。旅客需要の増大を受け子会社、新京阪鉄道を設立。28年には天神橋(現在の天神橋筋六丁目)―京都・西院を開業した。淀川を挟んで京阪と新京阪で固める戦略だった。現在の阪急電鉄京都線・千里線だ。戦時中の統制経済により京阪と阪神急行電鉄(阪急電鉄)が合併、戦後は阪急に移管された。

「京阪は京都の伏見・山科地域の鉄道網整備と併せて、名古屋への延伸を計画した」と京都府立京都学・歴彩館の若林正博氏。路線計画の資料を分析し「現在の阪急京都線西向日駅辺りから分岐する『山科線』と、京阪宇治線六地蔵駅からの『六地蔵線』を建設し、名古屋急行と結ぼうとした」とみる。

社史「京阪百年のあゆみ」を執筆した坂口誠・東洋大学准教授は「新京阪を生かす狙いもあった」と話す。

新京阪は大型車両が高速走行できる設備を持って開業したが、当時の大阪府北部は田園地帯。太田社長は「高速・短時間・大量輸送」の3つこそ電鉄経営に不可欠と考え、新京阪の延長路線として終着駅・名古屋を視野に入れた。

名古屋急行は28年に免許を出願。社員を採用し測量を行うなど本気で準備を進めた。

計画ルートを見てみよう。滋賀県の膳所駅付近から東海道線と並走、近江鉄道八日市駅付近を通り、山間部に入る。鈴鹿山脈の石榑(いしぐれ)峠にトンネルをぶち抜き、木曽三川を鉄橋で渡り、名古屋鉄道尾西線佐屋駅付近を通過。名古屋市内は金山駅付近を終点に想定していた。

大津―名古屋は約100キロメートル。天神橋―名古屋約150キロメートルを阪急京都線で活躍した「P-6形(100形)」で2時間で走る計画だった。総工費は4500万円と見積もられた。

ただ、昭和恐慌で資金調達に苦戦、名古屋急行は会社設立に至らなかった。京阪も新京阪開業や関西での拡大による多額の負債が重荷となり、リストラを余儀なくされた。

名古屋急行の免許は35年に返上され、計画は7年ほどでついえた。太田社長は著書「電鉄生活三十年」の中で無念さを書き残している。

京阪の計画断念から3年後の38年、名古屋からの関西急行電鉄が全線開業。宇治山田(三重県)まで開業していた参宮急行電鉄と、江戸橋(三重県)での乗り換えにより近鉄系が結ばれた。戦後は伊勢湾台風の復旧工事で名古屋線と大阪線の線路の幅が統一され、名阪に乗り換えなしの特急が誕生した。

名古屋急行が計画通り開業していたら……。新幹線とデッドヒートを繰り広げたのは京阪だったかもしれない。

(東大阪支局長 苅谷直政)

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