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織田信長の安土城天守、実像解明の夢

時を刻む

瓦を載せてそびえ立つ天守(主)、堅固な高い石垣。私たちがイメージする城の姿は織田信長が築いた安土城が源流といわれる。天守は完成の3年後、1582年(天正10年)に起きた本能寺の変の直後に焼失し、詳細を伝える史料は少ない。全国的な城郭ブームを背景に、滋賀県は現在の城跡(同県近江八幡市)での復元の検討を始めた。

紅葉シーズンを迎えた安土城跡は多くの観光客でにぎわっていた。麓から中腹までまっすぐ伸びる大手道は長さ180メートル。2008年まで20年間の滋賀県の調査整備事業で確認・整備された。同県文化財保護課の松下浩係長は「城郭の目的である防御の思想とは真逆のつくり。信長が天皇の安土行幸を画策した可能性を裏付けた」と解説する。

山上にある七角形とも八角形とも見える天守台の石垣は築城当時のものだ。台上に柱を立てるための礎石111個が整然と並ぶ。近江八幡市文化観光課の坂田孝彦課長補佐は「高さ12メートルの石垣は60度程度の緩い傾斜になっており、高層で重量のある建築物を載せる狙いが明らかだ」と指摘する。

外観は推測多く

台上にどんな天守があったのか。滋賀県は26年の安土城築城450年祭に向けて、城の実像を明らかにし、目に見える形で復元を目指す。安土城跡は国の特別史跡に指定されているため、史料に基づいて忠実に再現する必要があるが、天守に関する出土物は礎石と金箔瓦しかない。

一般に知られる地下1階・地上6階の姿は太田牛一(ぎゅういち)の「信長公記(しんちょうこうき)」と「天守指図(さしず)」(静嘉堂文庫所蔵)によるものだ。天守指図は加賀藩作事奉行などを務めた池上家に伝わるもので、江戸時代中期の写本とされる。各階の平面図には安土城とは書かれていないが、石垣の形状が一致しているうえ、信長公記との整合性も高い。

天守指図をベースに中央に大きな吹き抜けを持つ構造を提起したのが愛知産業大学の学長だった内藤昌(あきら)氏だ。天守最上部の5~6階部分の実物大の再現を試みた「信長の館」は内藤氏が監修し、1992年のスペイン・セビリア万博に出展され、現在は城跡近くの施設に展示される。立面図がないため、外観は推測による部分も多い。復元には外観を伝える史料が必要だ。

屏風に城の姿?

信長は後世の研究者にヒントを一つ残した。ローマ教皇(法王)グレゴリウス13世に贈った1双の「安土山図屏風」だ。城と城下町を描いたのは狩野永徳か、父親の松栄といわれる。天正遣欧使節とともにローマに渡ったことが宣教師の記録から明らかになっている。これまで滋賀県と安土町(現・近江八幡市)がそれぞれに現地を含めて調査したが、見つからなかった。

「文化的価値が高いものを捨てるはずがない。安土城の屏風はどこかに存在する」。安土町の調査に参加した大阪大学のパオラ・カヴァリエレ特任講師(宗教社会学)は断言する。調査ではバチカン宮殿の「地図の画廊」に架けられたと結論づけたが、別の「世界地図の画廊」の可能性が高いことが分かったという。国内外4人の研究者らとともに、画廊の記録などの調査を今も続けている。

難問が多い県の復元プロジェクトについて松下係長は「天守実物の復元は究極の夢として持っていたいが、仮想現実(VR)で見せるのも選択肢だ」と話す。

滋賀県立大学の中井均教授(考古学)は「実在する本物を生かすべきだ。安土城には本物の石垣が残っているが、木が生い茂って見えない。竹田城(兵庫県朝来市)は木を伐採してから『天空の城』として有名になった」と指摘する。

城跡のボランティアガイドの一人は「子どもの頃は麓から天守台の石垣が見えた」と証言する。本物を知る人が増えれば、幻の天守の解明に夢を持つ人も増えるだろう。

(木下修臣)

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