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山内隆博氏 銀行から大不況の株界へ

2019/11/23 4:30
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静岡県出身の相場師は少ない。温暖で地勢の豊かな地から相場師は出ない。明治時代に入丸将軍と呼ばれた村上太三郎が突出しているが後は小粒である。和歌山県や山梨県のような地勢に恵まれない地方から相場師は多く輩出される傾向がある。

写真は「大和証券百年史」より

写真は「大和証券百年史」より

「証券人国記」(日本証券新聞社編)をみても静岡県出身の証券マンは山内隆博(大和証券)、大石巌(新日本証券)、石川郁郎(野村総合研究所)、中村金一郎(丸八証券)、服部四郎(三田証券)、河崎清六(伊藤銀証券)、高木弘毅(丸三証券)くらい、そして最もスペースを取るのが山内である。

山内には相場師の血が脈々と流れている。先代が相当な相場好きであった。同郷の山吉こと鈴木由郎の店で頻繁に相場を張っていたという。鈴木由郎は戦前蛎殻町の米相場で鳴らし、その後兜町に転じ、戦後は兜町で二十日会を組織、地場証券の一方の旗頭であった。東京穀物商品取引所の理事も務めていた。

山内隆博は3歳で上京、小学2年の時関東大震災に遭い、いったん郷里に疎開するが、当時生家は"白木屋"という屋号で呼ばれていた。そのころ屋号を持つのは素封家の証明であったという。母の祖父が農家から身を起こし土地を買い小作人を雇って一代で産を成した。隆博が生まれるころには山内銀行という小さな銀行を開いていた。同行は昭和2年の金融恐慌で安田銀行に統合されるが、裕福な少年時代を送る。疎開から東京に戻った山内は小学、中学校とも高千穂に学んだ。先輩に山一証券の二代目小池厚之助がいた。旧制の成蹊高校に進学すると、そこの先輩には藍沢吉雄藍沢証券社長、小布施新太郎小布施証券社長、鈴木啓介山吉証券社長らがいた。

東大卒業と同時に住友銀行に入るが、半年で軍隊へ。ジャワでは太平洋戦史に残るバンタム湾敵前上陸を経験する。「上陸用舟艇が撃沈され、波間に漂う中でやっと九死に一生を得た」と述懐する。復員すると住友銀行銀座支店に勤務、同39年大和証券に入る。福田千里大和証券会長が掘田庄三住銀頭取に直談判の末、証券界に転じた。時に49歳。福田はこの時将来社長になる人物として山内を考えていたに違いない。すぐ専務から副社長に進み、同45年、入社6年で社長に就任。

山内には兜町の水があったようである。後年述懐している。「水が合って、非常に好きな、働きがいのある職場。人間の気持ちというか、心というか、それが生き生きしている。お互い裸で付き合うような、喜怒哀楽を包み隠さない人間らしさがこの世界の特徴だろう」。(証券人国記)

それにしても大和に転籍した直後の証券不況の時はしんどかった。毎日社員が一人、二人辞めていく日々。セールスマンを文字通りひざ詰め談判。「この不況下にあっては信じられないかもしれんが証券界は必ず明るい道は開けてくる。ここは壁の土を食ってでも生き延びなくては…」

時は流れ、昭和53年日本証券業協会会長に推された時、業界の長老の説得に山内は逃げなかった。「いつの時代でも厄介なことはあるもの」と割り切って受けた。

尊敬する人物は鈴木由郎、親しい人物はその息子鈴木啓介。鈴木家とは親子二代の交わりとなる。=敬称略

信条
・以和為貴
・人間尊重の理念の下、生きがいある会社を作る
・盛り上がりの経営とは共感、共鳴の経営
・昭和40年不況を乗り越えた熱情がのちの繁栄をもたらした

(やまうち たかひろ 1915-1990)
大正4年静岡県磐田市出身、3歳で上京、昭和13年東大経済学部卒、住友銀行に入るが、同年12月現役初年兵として近衛歩兵第一連隊に入り、同16年、第16軍(ジャワ派遣軍)軍政部に転じ、バンタム湾上陸作戦を体験。終戦時は陸軍大尉、住友銀行に復職、取締役名古屋支店長、本店支配人を経て、同39年大和証券に転じ、専務、同41年副社長、同45年社長、同49年会長。同53年日本証券業協会会長。

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