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吉田武衛氏 銀行員から市場人へ

2019/11/16 4:30
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吉田武衛は銀行員から取引所に入り、のち仲買人(大正12年から取引員と呼称変更)に転じ、堂島市場の全盛期を生きた相場師である。吉田が百三十銀行に勤務していた時代、堂島の名物男、高倉藤平から誘われて堂島米穀取引所の支配人に就任する。当時取引所と言えばばくちの胴元のように見られていたから思い切った決断である。しかも藤平が堂島取引所の理事長に就任するにあたっては、激しい仕手戦の末、同取引所を強引に乗っ取った直後のことであり、市場運営は非常に難しかったはずである。だから藤平は外部から吉田を招いて支配人にすえたのだった。

写真は明治40年ころの堂島取引所、宮本又次著「大阪商人太平記」より

写真は明治40年ころの堂島取引所、宮本又次著「大阪商人太平記」より

「あらゆる点において非凡の才能を謳われた名理事長、故理事長高倉藤平は君に見るところあり、しいて銀行を辞めしめ、堂島取引所の支配人にすえた。これが君が今日市場人として名を成す機縁であった。君が支配人として業務に当たるや、堅実と緻密と勤勉をもってなり、口やかましい小姑の観ある多数の仲買も君に対しては陰口一つたたかなかった」(大阪今日新聞社編「市場の人」)

順風を背に受けて堂島市場の黄金期を満喫していたとき、藤平が急病で43歳の若さで急逝する。吉田にとって親分の死はショックであったに違いない。大正6年12月、藤平の婿養子高倉為三が第10代理事長に就任すると、吉田は常務理事として為三を支え、堂島の黄金期を演出する。だが為三の天下も長くは続かなかった。大正バブル景気の崩壊で高倉家ゆかりの日本積善銀行、有隣生命などの経営が行き詰まると責任を取って堂島取引所の理事長からも降りてしまう。責任感の強い吉田は為三理事長に殉じて退社する。大正11年のことだ。当時の地場評が残っている。

「君が10年間、熱誠をもって取引所のために、また市場のために尽くした功労は決して小さくない。しかし、退任にあたっては、取引所、並びに市場が君に報いるに薄く、世間はこぞって君のために同情を禁じ得なかった。君の心事を知る新聞記者の有志は乏しきを割いて君のために慰安の宴を設けようと準備を整えた」(同)。しかし、この企画は実現しなかった。「吉田は辞退するに違いない」との見方が支配的だったからだ。この一件は吉田の人望の厚さを物語るものだ。

取引所の運営から手を引いてしばらく充電ののち、吉田は勝手知ったる堂島市場に取引員として戻ってくる。大正13年9月のことだ。

一介の取引員になってからの吉田の経営方針はあくまで漸進主義を貫いた。そのことが世間の信用を高め、手堅い客が集まってきた。地味ではあるが店に重みを与えたようだ。一攫千金を狙うような客は寄り付かない。だから場に大玉をさらすようなことはしない。大玉は取引所運営に当たってはありがたい半面で厄介者であることを知っているからだ。手張りもせいぜい10枚くらいのものでもっぱら客注によって店は伸びていった。昭和に入ってからの足跡ははっきりしない。米価の統制色が強まり堂島市場には晩鐘が響き始める。=敬称略

信条
・冷静、着実、温和、無策、篤実の人
・漸進主義、一足飛びの急発展は企てない
・村(堂島)有数の人格者(市場の人)
(よしだ・ぶえ 生没年不詳)
明治44年、百三十銀行福井支店長の時、堂島米穀取引所理事長の高倉藤平に呼ばれて同取引所支配人に就任、のち常務理事に昇任。大正6年高倉が急逝すると、あとを継いだ婿養子の高倉為三理事長を支えた。堂島の全盛期を演出するが、為三の積極さが大正バブル崩壊に遭遇して破綻、理事長を辞任すると為三に殉じて退社、同13年仲買店を開業、再び市場へ戻る。

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