今また新鮮、チンドン屋 原点は江戸末期の大阪に
とことん調査隊

関西タイムライン
コラム(地域)
2019/11/5 7:01
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派手な衣装で鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、道行く人の注目を集める「チンドン屋」。新装開店やイベント開催を知らせるレトロな宣伝メディアとして全国で親しまれているが、発祥は江戸末期の大阪・千日前とされる。道頓堀に並ぶ看板と同様に「大阪らしさ」も感じさせるチンドン屋。歴史と今を調べてみた。

昨年6月、米国・シカゴの中心街。ちょんまげや派手な衣装を着て軽妙なリズムを奏でながら練り歩くのは大阪・谷町六丁目が拠点のチンドン屋集団「ちんどん通信社」。行列の後ろにはハーメルンの笛吹き男さながら、現地の人々が浴衣や法被などに身を包んで続いたという。大阪市とシカゴ市の姉妹都市提携45周年の記念イベントの一幕だ。

一時は「古くさい」「時代遅れ」と絶滅寸前だったが今や日本の魅力を発信する伝統的な芸能の一つ。かつては邪魔者扱いされることも多かったが、先入観のない世代が多数派になり「新鮮に楽しんでもらえるようになった」(創業者で代表の林幸治郎氏)。

チンドン屋の原点は1845年の大阪・千日前にさかのぼる。竹の鳴り物と売り声で人気を得た飴(あめ)売り「飴勝」が商売の傍ら、寄席の客寄せを請け負うようになった。これがチンドン屋の元祖とされる。

その後、飴勝の仕事を引き継いだ芝居好きの勇亀という人物が歌舞伎や文楽の開演の合図「東西、東西」という口上をまね、有名になった。以降、路上宣伝業全般が「東西屋」と呼ばれるようになる。

東京へ進出した東西屋が楽隊を加えた編成で注目され、売り声・口上中心だった大阪でも取り入れられるなど、姿を変えながら今の姿に近づいていく。無声映画に解説をあてる活弁士が無声映画の衰退とともに大量に転職するなど、時代ごとに様々な芸を持つ人材が流れ込んできた。

ちんどん通信社の林氏はジャズ、音楽への関心を入り口に大学からこの世界に。修業を始めた1980年代当時は「旅役者、大衆演劇、農村歌舞伎、ストリップショー、素人芸を持つ元サラリーマンなどが集まっていて、化粧一つとってもそれぞれの流儀があった」。色々な芸が混ざり合い、チンドン屋のスタイルができあがってきたわけだ。

ちんどん通信社では路上を練り歩く宣伝業務「街廻(まわ)り」を今も年間400件こなす。時代を映すように雇い主も変わった。「昔多かったのが市場や商店街、居酒屋チェーン、バブル期には不動産や高級車ディーラー、その後は携帯ショップ、最近はインバウンド(訪日外国人)向けの呼び込みも増えた」

「漫然とCMを打っても物が売れない時代。雇い主と客の間に入って、深い関係を作れるのがチンドン屋の強み」と林氏。パチンコ屋の宣伝で「あの店はあたりが出ない」とやじが飛べば「あたりは出ます」と嘘をつかずに「俺もあたったことない」と笑わせるのが大阪スタイルだ。

「東京のチンドン屋は身につけた芸を(型として)見せる傾向があるが、大阪は客の話を聞くことやコミュニケーションを重視する」とも林氏は言う。東京が拠点の東京チンドン倶楽部の高田洋介代表は「東京は師匠について修業して技を継ぎ、個人で独立する。大阪は会社組織の大所帯で、前例にとらわれず新しい芸を積極的に取り込んでいる」と東西の違いを解説する。

ちんどん通信社は路上を離れてパーティーの余興、地域の敬老会、劇場やライブハウスでの自主公演なども行っている。路上と同様、観客からの突っ込みや会話もひんぱんに発生する客席と舞台の垣根が限りなく低い公演だ。

東京は「路上以外、ライブハウスや舞台での公演はほとんどない」(高田氏)。大阪のチンドン屋は客とのコミュニケーションが得意な大阪式の強みを生かし、活躍の場を広げている。

(佐藤洋輔)

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