最新の市場情報

「※」は20分以上遅延
日経平均株価(円) 23,087.33 -205.32
日経平均先物(円)
大取,19/12月 ※
23,120 -170

[PR]

相場師列伝

フォローする

森矗昶氏 森コンツェルン、買いまくる

2019/11/9 4:30
保存
共有
印刷
その他

森コンツェルンの創始者森矗昶は昭和初めの経済界で一番忙しい男と称された。次々と新しい工場を立ち上げ文字通り"煙突男"であった。大正の"煙突男"が鈴木商店の大番頭金子直吉なら、昭和初期のそれは森であった。

写真は石川悌次郎著「森矗昶伝」より

写真は石川悌次郎著「森矗昶伝」より

「昭和8,9年から同15年ころまでの期間における森の多忙さがまったく傍らで見ていられないほどのものであった。その頃の日本で一番忙しい人であった。彼の主宰していた事業は十指を屈しても足りず、片っ端から金もないのに事業を拡張し事業場を新設するという状態で…」(石川悌次郎著「森矗昶伝」)

金策だけでも容易なものではなかった。汽車の中で会議を開き、会津から信州大町まで難路をぶっ飛ばし、翌日は富山に抜けるという破天荒ぶり。長距離電話の料金納入額は森が東京中でトップだった。その頃森の睡眠時間は3時間足らずと言われたものだ。森が兄事した味の素の創始者、鈴木三郎助は森の破天荒ぶりをこうみている。

「鈴木の目から見た森の事業家としての欠点は、営利の観念の欠如であった。鈴木は、どんな大相場を張っても、どんな抱負経綸を踊りに踊っても、その片足は常に営利の地べたから離れたことはない。営利と事業欲とは常に車の両輪のごとく鈴木の胸中に調和良く回転していて彼の事業の成功はまさしくそれに比例する私財の蓄積となって結果した」(同)

森は煙突から飛龍の雲を吐き出し製品が機械の間から生産されるようになれば目標は達成されたことになり、早くも新たな煙突を建てることにまい進する。コンプライアンス時代の経済人から見れば、破天荒としか言いようのない突進ぶりである。

昭和9年1月、アルミの国産化に成功した森は次の照準を合わせ、鉱山業進出にかじを切る。安田をはじめ従来森を支援してきた金融機関もこぞって反対する。側近として仕えてきた高橋保も「そんなに何もかも手を出したら締めくくりがつかなくなりますよ」と忠告した。そんな中で、例外として賛意を表したのは三菱銀行頭取の瀬下清だけであった。森は鉱山業への進出については一家言持っていた。

「どうも仕事は何をやっても同業者に迷惑をかける。その点、地下資源の開発は地下に眠っていたものを世の中の役に立たせるだけで誰にも迷惑は掛からぬ。これは一番気持ちのいい仕事だよ」

森の鉱山買収に拍車がかかる。日本中の山師が新山、旧山ないまぜにして森の門をたたいて売り込みに殺到する。森はろくに山をみないで重役会にかけるまでもなく、片っ端から買い占めていく。食わせ物の山も多く側近が森に忠告する。と森は「死に馬の骨を千金で買うという故事を知っているか。俺は今それをやっているのだ」と語り出す。

「山などというものは百の中に二つか三つよい山にぶち当たれば元が取れる。森のところではどんな山でもいい値で買うという評判が立てば、我も我もとおれのところへ話を持ち込んでくる。その中にはインチキもたくさんある。けれども一つや二つは天下の名山もあるだろう。会社はそれだけを稼働すればよいのだ」(同)

インチキ話も広告宣伝費と割り切る森の買いっぷりは「みんな買った」と立会場で大向こうをうならす相場師を連想させる。「成り行き買い」の一ランク上の「つけろ買い」のような迫力である。=敬称略

信条
・資性朴直、人を愛し、人また君を愛す
・豪宏不羈の質は父祖に得て太平洋の怒涛に学ぶ
・形骸は今故山に帰る。太平洋の怒涛は再び懐かしき君の歌を奏せんとす(鈴木忠治弔辞)

(もり のぶてる 1884-1941)
明治17年千葉県出身、同31年興津高等小学校卒、同41年総房水産会社を設立、営業部長に就任(のち常務)、大正11年森興業設立、東信電気建設部長、同13年千葉から衆議員議員に当選(以後4選)、同14年東信電気専務、同15年日本沃度会社設立、社長に就任。昭和3年昭和肥料を設立、鈴木三郎助が社長、森が専務に就任、昭和8年日本火工を買収、社長に就任、同9年昭和鉱業を創設社長に就任、国産アルミニウムの生産に成功、同13年日本アルミニウム工業組合理事長、同14年昭和電工を新設、社長に就任。

相場師列伝をMyニュースでまとめ読み
フォローする

保存
共有
印刷
その他

関連企業・業界 日経会社情報DIGITAL

電子版トップマーケットトップ

相場師列伝 一覧

フォローする

読まれたコラム