進む教育劣化 社会に出て「引き算」を習う大人たち
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コラム(ビジネス)
2019/10/29 10:13
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「大人塾」には大卒の大手製造業、サービス業の現役社員も通う

「大人塾」には大卒の大手製造業、サービス業の現役社員も通う

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2019年10月。JR高田馬場駅から徒歩1分、早稲田通り沿いにある7階建てのビルの2階で、その「生徒」たちは一心不乱に答案用紙に向き合っていた。

問題用紙を見ると次のような問いが並ぶ。

「8-0.23=□」
「66.3÷1.3=□」
「桃を24個ずつ箱に詰めたら12箱になりました。9個ずつ詰めると何箱できますか」
「350ページの小説を140ページまで読みました。読み終えたページは全体の何%ですか」

見たところ、小学校高学年レベルの算数のようだ。

ただ、そこで格闘しているのは小学生でもなければ中学生でもない。10年も20年も前に義務教育を終えた「大の大人たち」だ。

■大手銀行でも新人の半分は消費税計算に苦戦

パソコン教室の運営を主力とするマミオン(東京・新宿、森万見子社長)が「大人のための算数・数学教室『大人塾』」を始めたのは11年秋。当初、受講生は月に数人だったが、現在はオンライン講座を含めて年間1000人以上が大人塾の門をたたく。

ここで算数・数学を学び直す理由は、正社員の登用や転職、昇格などの試験を控えているためだ。通う人のほとんどは誰もが知る大手製造業やサービス業で働く現役の社員で、大卒も多い。

「話を聞いて驚かれる方も多いが、つい先日も大手金融機関で新入社員200人に消費税の計算をさせたところ、半数が税抜き価格に1.08を掛けることができなかった。これが日本の現実」と森社長は話す。

大人塾の特徴は、前出の例題を見ても分かる通り、場合によっては「引き算」からやり直す「徹底した基礎固め」と、独自のスライド教材を活用した「気軽に楽しく算数を学べるカリキュラム」だ。卒業生からは「中学時代に大人塾があって数学の楽しさを知ることができれば、自分の人生は変わっていた」との感想が少なくない。

だが、大人塾のカリキュラムの優秀さや、大人になって初めて算数の大切さを知る人々が増えている現実を知れば知るほど、こんな不安を感じる方もいるに違いない。「そもそも日本の教育は大丈夫なのか」と。

世界的に見ても早く、明治期からスタートし100年以上の歴史を持つ日本の教育。とりわけ戦後70年以上、安定した平和と順調な経済発展の上に育まれた「日本型教育」は、国民にあまねく「全人的な学び」の場を提供できるシステムとして国際的にも評価されてきた。

もちろん課題はある。例えば、平均的児童を対象にした画一的教育の結果、米国の飛び級のような「できる子がその才能を一段と伸ばす環境」に乏しいという批判はその1つ。最近は、「ギフテッド」(天から与えられた)と呼ばれるIQ130以上の子供たちが、優秀であるが故に周囲から疎外される「浮きこぼれ」が問題になりつつある。

「天才や異才を育む仕組み」が日本の教育にない証としてよく取り沙汰されるのが学術論文の低迷だ。文部科学省の研究所はこのほど、世界から注目される論文の国別シェア(占有率)で、日本が05~07年の5位(3年間の平均)から15~17年(同)は9位へと低迷していることを公表。かつて「お家芸」とされた化学、材料科学、物理のシェア低下が目立つという。

それでもなお、多くの人は、「天才や異才を育てるのは苦手でも、社会で生き抜く必要最低限の知識をできるだけ多くの人に植え付ける」均質性の点では、日本の教育は世界トップクラスだろうと思っていたはずだ。「引き算」や「割り算」を学び直す大人たちの存在は、そうした楽観を根底から突き崩すといえる。

■日本の競争力はついに世界30位まで転落

日本の教育は、天才や異才だけでなく、簡単な数学的知識をはじめ「普通の人材になるための基本スキル」を国民に身に付けさせることも、実は、十分にできなくなりつつある――。そんな仮説が正しければ、事は学術論文の数が減るどころでは済まされず、日本企業の競争力そのものにも当然、影響を及ぼす。

その懸念は既に顕在化しつつある。

世界の政財界トップによって構成される「ダボス会議」で知られるスイスのシンクタンク「世界経済フォーラム」は10月9日、19年の国際競争力ランキングを発表。それによると日本は141カ国・地域中で6位と、前年の5位から総合順位を1つ落とした。

今年5月には、日本企業の生産性や国際競争力に関するよりショッキングなリポートが報告されている。同じスイスの有力ビジネススクールIMDの「2019年版世界競争力ランキング」がそれだ。

これによると、日本の総合順位は30位。比較可能な1997年以降では過去最低で、シンガポール(1位)、香港(2位)などの背中はほど遠く、中国(14位)やタイ(25位)、韓国(28位)をも下回った。かつて日本が1989年から4年連続で世界1位を記録していた同調査だけに、その没落がうかがえる。

IMDの調査は「経済のパフォーマンス」「政府の効率性」「ビジネスの効率性」「インフラ」の4項目が主な判断基準で、順に日本は16位、38位、46位、15位だった。ビジネスの効率性、つまり企業の生産性と競争力が足を引っ張っていることは明らかだ。ではその原因は何か。IMDの日本に対する提言は明確だ。

「Work-style reform and human resources development(働き方改革と同時並行で、人材開発を一層進める必要がある)」――。

では、日本がIMDの競争力ランキングで1位の座を奪い返すために育成を強化すべきなのは、どのような人材か。そのヒントとなるのが、経済協力開発機構(OECD)による学習到達度調査PISA(ピサ)の成人版PIAAC(ピアック)だ。16歳から65歳の成人で24カ国・地域に居住する約15万7000人を対象にした最新の調査から導き出せる「日本が強化する余地のある人材」は次の3種だ。

1. 仕事に最低限必要な「読解力」を持つ人材
2. 仕事に最低限必要な「数的思考力」を持つ人材
3. 仕事に最低限必要な「IT活用力」を持つ人材

その程度の基本スキルは日本国民であれば現役世代の大半がとっくに身に付けていると思う人もいるかもしれない。だが、PIAACを見る限り、日本人の現役世代の27.7%は「日本語の読解力の習熟度がレベル2以下」の状況にあり、例えば「図書館の図書目録を指示通りに検索し、指定された書名の著者を検索できない」可能性が高い。

■天才よりも「普通の人材」が不足している

数的思考力でも36.3%がやはり「習熟度レベル2以下」で、例えば「立体図を見ながら、その立体を分解すればどんな平面図になるか想像できない」恐れが強い。さらに、ITを活用した問題解決能力でも53.6%が「習熟度レベル2以下」で、「届いた電子メールの文面から必要な情報を読み取り、会議室予約を代行することが難しい」可能性がある。

製造業であれ小売業であれ、上司からの指示やマニュアルの意味を理解し、顧客と円満な関係を築くには「相手の言葉を理解する読解力」が欠かせない。生産ラインであれ営業現場であれ、計画を円滑に進めるには「時間や生産量を管理する数的思考力」が不可欠だ。IT化が進むオフィスで「IT活用力」が大切なのは言うまでもない。

もっとも、厳しい数字が並ぶPIAACだが、国際比較をすると日本の状況はさして悪くはない。例えば「読解力」で言えば、確かに10人に3人は習熟度は低いかもしれないが、平均点は296点とOECD平均(273点)を大きく上回り1位。つまり、日本も褒められたものではないが、他の国にはもっと母国語の読解力の低い人がたくさんいる。これをもってして「PIAACの結果は逆に日本の教育の質が高いことを示す証拠」との見方もある。

だが教育に詳しい専門家ほど、こうした楽観論には否定的だ。

日本は、日本で生まれ日本語を母語として育つ子供の割合が高く、移民の比率が高い国や多言語国家に比べ、「読解力」調査などではもともと圧倒的有利な立場にある。十分なハンディをもらっているにもかかわらず、10人中3人が読解力が低いという現実をむしろ深刻に受け止めるべきだ――というのがその理由だ。

■「引き算を習う大人たち」が示す未来

人材難による企業競争力の低下が指摘される日本。だが、企業の競争力を下げているのは、天才や異才の不足というより「企業の現場で、上司の指示を理解し効率よく正確に作業を遂行する普通の人材」の不足である可能性が見えてきた。

だとすれば、要因の1つに「普通の人材になるための基本スキル」を国民に身に付けさせるはずの日本型教育の劣化があるのはおそらく間違いない。「社会に出てから引き算を習う大人たち」は、その兆候の1つでしかない。

(日経ビジネス 吉野次郎、山田宏逸、定方美緒、津久井悠太)

[日経ビジネス電子版 2019年10月15日の記事を再構成]

日経ビジネス2019年10月28日号の特集「AI未満人材 教育劣化ニッポンの現実」では、日本の競争力低迷の要因として教育に着目。強い人材を育むための道を探っている。

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