私塾を再興、伝統文化守り10年 京都・有斐斎弘道館
時を刻む 儒学者・皆川淇園の「弘道館」跡地

2019/10/24 7:01
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茶道の講話などが開かれる学問所(京都市上京区)

茶道の講話などが開かれる学問所(京都市上京区)

江戸時代、京都には多くの私塾があった。儒学者らに師事し学んだ市井の知識人が自分の屋敷で漢学や和学、洋学、医学、心学などを講じていた。評判を呼んだ私塾には各地から教えを乞う人々が集まった。

その一つに江戸中期の京都を代表する儒学者、皆川淇園(きえん)が開設した弘道館がある。開物学という独自の学問を打ち立てただけでなく、詩文や書画にも優れていたという。円山応挙らとも親交のあった淇園の学問所は「門弟三千人」とうたわれた。

京都御所の西、「弘道館址(あと)」の石標が立つ場所に10年前、伝統文化を学ぶ学問所ができた。淇園の号の一つ「有斐斎(ゆうひさい)」の名を取り、有斐斎弘道館と名付けられた建物では、以来、淇園の文書を読む学習会、信仰や茶の湯を知る教養講座、菓子づくりの実演など多彩な講座が開かれている。

■取り壊しの危機

学問所再興のきっかけは、企業が所有していた数寄屋建築の家屋を取り壊す計画が浮上したことだった。

明治期に建てられ増改築されてきた建物には茶室や広間があり、石畳の路地、門、石灯籠や蹲(つくばい)が配された露地庭を持つ。和の伝統建築だが、淇園の弘道館とは関係がなく、登録文化財にもなっていなかった。

常に手入れされた庭(京都市上京区)

常に手入れされた庭(京都市上京区)

現在、有斐斎弘道館長を務める濱崎加奈子専修大准教授がこの建物に出会ったのは2006年ごろ。伝統文化の普及活動に携わってきたため、建物を借りた知人に協力を求められた。3年ほど和の文化サロンとして活用していたら、所有企業が土地を売却し、建物を取り壊してマンションにする計画が耳に入ってきた。

放っておけなくなり、建物を残すために奔走した。そのころ京都では伝統的な町家や茶室・庭のある日本建築の家が次々に姿を消していた。「伝統文化は暮らしの中に息づいていてほしい。そのためには場が必要になる。ここを守れないようでは、京都はこの先どうなってしまうのだろうと思いました」と振り返る。

が、支援を頼んだ有力企業は「採算が取れない」と二の足を踏むばかり。京菓子の老舗「老松」代表の太田達さんらの協力で取り壊しは免れることができた。

あちこち傷んでいた建物を修理し、雑木雑草が生い茂っていた庭を整備。その後、公益財団法人化し、様々な文化講座を開いてきた。近世京都学会代表幹事を務める松田清京都大名誉教授は淇園の記した文書を読む講座を続けている。

■担い手の高齢化

自ら講師となって茶の湯文化などの教養講座を開いている太田さんと濱崎さんは、有斐斎弘道館の活動を「ちゃかぽん」と表現する。ちゃかは茶と和歌、ぽんは鼓の音のことで、能を指す。これらに打ち込んだとされる幕末の大老、井伊直弼のあだ名でもある。

座学で知識を得るだけでなく、茶や謡の実践、芸能に親しむ機会を通じて厚みのある教養を身につける場にしたいという思いがある。茶の湯に関する書を読み謡を学ぶ会、能の表現に親しむ会、香道や茶事の入門といった講座を企画しているのはそのためだ。

伝統文化、芸能は、親しむ層の高齢化が進み、担い手の裾野が狭まっているといわれる。茶の湯など暮らしの文化の振興は京都に移転する文化庁が推進を掲げる施策でもある。

「ここで活動をしていると、空間の重要性や人目に付きにくい手間の大切さに気付く」と濱崎さん。庭を隅々まで掃除しないと建物を含めた全体の上品な雰囲気を保てない。庭では夏、茶の湯に欠かせない灰づくりをする。これらはボランティア協力者の支援がなければ続けられないという。

復興して10年。有斐斎弘道館の"門弟"がどれほど増えるかは、伝統文化の行方を探る目安になるかもしれない。

(堀田昇吾)

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