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Jリーグ広島で正GKに 五輪不出場の悔しさ生かす
サッカーGK 下田崇(3)

Tokyo2020
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2019/10/2 5:30
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20歳の下田崇はサンフレッチェ広島の正GKを目指してもがいた(2019年8月、東京都文京区のJFAハウス)

20歳の下田崇はサンフレッチェ広島の正GKを目指してもがいた(2019年8月、東京都文京区のJFAハウス)

1996年アトランタ五輪代表のゴールキーパー(GK)、下田崇(43)は、所属するJリーグのクラブ、サンフレッチェ広島では3番手のキーパーだった。2人の先輩を追うため、五輪での経験を生かしていく。今回は現在、五輪代表と日本代表でGKコーチを担う下田が、広島で正GKの地位をつかみ、日本代表にも選出されていく姿を描く。(前回は「『奇跡ではない』 五輪GKが見たブラジル戦勝利」

◇   ◇   ◇

アトランタ五輪でブラジル、ハンガリーを破っても決勝トーナメントに進出できなかったのが「世界の壁」ならば、下田崇にとって「広島の壁」もまた、高く厚いものだった。

1994年に広島皆実高校からサンフレッチェ広島に加入し、この年、早くも年代別のU-19日本代表に初めて選出される。翌年もU-20代表としてワールドユース(現ワールドカップ、W杯)カタール大会に出場し、チームの勢いとともにアトランタ五輪代表へと駆け上っていく。

年代別代表ではこうして順調なキャリアを積み重ねる一方、「GK王国」広島に戻れば正GKの前川和也、2番手の河野和正に続く第3GKとなる。年代別で豊富な国際経験を積みながら、クラブに戻るとJリーグに出場できない。「マイアミの奇跡」でブラジルを倒したアトランタ五輪に18人中1人出場できず、さらにクラブに戻っても2人の背中を追わねばならなかった当時、今も忘れられない面談を受けた。

■広島のサッカーに「助けられた」

「アトランタ五輪からクラブに戻った頃、ひとつ大きな山を乗り切った充実した思いと、五輪に出場できなかった悔しさ、さらに広島でこれからどうすれば自分のずっと前を走る2人の大先輩に追い付き、追い越せるんだろうと、本当に色々と考えていました。プロ2年目の時期、サンフレッチェの、人を育てる、指導に助けられました」

帰国後、20歳が、もがく姿を見守っていた強化担当者と1対1で話す機会が設けられた。五輪に行きながら出場できなかった結果よりも、そこにたどり着くまで自分がどう努力したか、何を学んだか、その過程が一番大事だと切り出された。

「何をしてきたのか、どういう努力で代表に入れたのか、毎日何を感じたのか。勝敗だけではなくてそれを生かしなさい。長く目指した五輪が終わってふっと力が抜けてしまうのではなく、今回の悔しさや経験をこれからにつなげる努力を絶対に怠らないように」

強化担当者との面談で足元を見つめ直したと振り返る下田

強化担当者との面談で足元を見つめ直したと振り返る下田

プロとしての将来や今後のキャリアといった遠くばかりを見つめていた時、足元の大切さに気付かせてくれた言葉だった。広島は、「サッカーで人を育てる」方針を掲げ、Jリーグ創設期から各選手に目標を明確に与えるミーティングや、外部有識者を招いての研修会などを頻繁に行い育成で定評を得ていた。そんな中、20歳のGKは自分の立ち位置を判断する冷静さと、寡黙だが決して絶えない情熱、五輪の日々で実感した緊張感の重要性を認識する。壁のような2人のGKの背中を、教えを常に携え追いかけようと腹を決めた。

悔しさだけではなく、GKコーチ、ジョゼ・マリオのもとで、同じ年のライバル・川口能活と毎日並び、競い合った緊張感も今後につなげられる。

紅白戦でも、サブとしてではなく、前川、河野を常に意識し必死に食らいつく。トレーニングでは独自のパートを、当時広島のGKコーチで、後に2002年W杯日韓大会で代表GKコーチになった望月一頼(かずより、57)に頼んで指導してもらった。

マリオが行うブラジル式の特別に厳しいGK練習は、歴代、ヨーロッパタイプの組織サッカーで、GKを戦術の起点と考える広島では、あまり取り入れないメニューだった。しかし、休みなく短い距離でのシュートを受け、呼吸をあえてピークにして正しいキャッチングを体にたたき込む反復練習を、下田はクラブでも続けたかった。もしコーチに「何故、そんな練習を?」と聞かれ、「五輪代表で毎日行っていたからです」と答えれば、まるでクラブより代表での練習、代表GKコーチを尊重しているかのように受け取られかねない。ましてレギュラーではない若手がうまく説明するのはもっと難しい。しかし望月は理由も問わず、反復練習に納得するまで時間を割いてくれた。

「笑ってしまうんですが……」

今回の取材中、そう言って明かした。つい最近、望月から「そういえば、あの頃どうして、うちではやらなかった練習をやりたいと言ったんだ?」と、20年以上前の練習目的を初めて問われた。若手のチャレンジ精神を「うちの練習の原則は……」などと、一概に否定しないクラブカラーがのぞく。20年前の練習について、寡黙なGK同士、ずい分遅くなったが初めて振り返ったと下田は笑った。

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