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Jリーグ広島で正GKに 五輪不出場の悔しさ生かす

サッカーGK 下田崇(3)

20歳の下田崇はサンフレッチェ広島の正GKを目指してもがいた(2019年8月、東京都文京区のJFAハウス)

1996年アトランタ五輪代表のゴールキーパー(GK)、下田崇(43)は、所属するJリーグのクラブ、サンフレッチェ広島では3番手のキーパーだった。2人の先輩を追うため、五輪での経験を生かしていく。今回は現在、五輪代表と日本代表でGKコーチを担う下田が、広島で正GKの地位をつかみ、日本代表にも選出されていく姿を描く。(前回は「『奇跡ではない』 五輪GKが見たブラジル戦勝利」

◇   ◇   ◇

アトランタ五輪でブラジル、ハンガリーを破っても決勝トーナメントに進出できなかったのが「世界の壁」ならば、下田崇にとって「広島の壁」もまた、高く厚いものだった。

1994年に広島皆実高校からサンフレッチェ広島に加入し、この年、早くも年代別のU-19日本代表に初めて選出される。翌年もU-20代表としてワールドユース(現ワールドカップ、W杯)カタール大会に出場し、チームの勢いとともにアトランタ五輪代表へと駆け上っていく。

年代別代表ではこうして順調なキャリアを積み重ねる一方、「GK王国」広島に戻れば正GKの前川和也、2番手の河野和正に続く第3GKとなる。年代別で豊富な国際経験を積みながら、クラブに戻るとJリーグに出場できない。「マイアミの奇跡」でブラジルを倒したアトランタ五輪に18人中1人出場できず、さらにクラブに戻っても2人の背中を追わねばならなかった当時、今も忘れられない面談を受けた。

広島のサッカーに「助けられた」

「アトランタ五輪からクラブに戻った頃、ひとつ大きな山を乗り切った充実した思いと、五輪に出場できなかった悔しさ、さらに広島でこれからどうすれば自分のずっと前を走る2人の大先輩に追い付き、追い越せるんだろうと、本当に色々と考えていました。プロ2年目の時期、サンフレッチェの、人を育てる、指導に助けられました」

帰国後、20歳が、もがく姿を見守っていた強化担当者と1対1で話す機会が設けられた。五輪に行きながら出場できなかった結果よりも、そこにたどり着くまで自分がどう努力したか、何を学んだか、その過程が一番大事だと切り出された。

「何をしてきたのか、どういう努力で代表に入れたのか、毎日何を感じたのか。勝敗だけではなくてそれを生かしなさい。長く目指した五輪が終わってふっと力が抜けてしまうのではなく、今回の悔しさや経験をこれからにつなげる努力を絶対に怠らないように」

強化担当者との面談で足元を見つめ直したと振り返る下田

プロとしての将来や今後のキャリアといった遠くばかりを見つめていた時、足元の大切さに気付かせてくれた言葉だった。広島は、「サッカーで人を育てる」方針を掲げ、Jリーグ創設期から各選手に目標を明確に与えるミーティングや、外部有識者を招いての研修会などを頻繁に行い育成で定評を得ていた。そんな中、20歳のGKは自分の立ち位置を判断する冷静さと、寡黙だが決して絶えない情熱、五輪の日々で実感した緊張感の重要性を認識する。壁のような2人のGKの背中を、教えを常に携え追いかけようと腹を決めた。

悔しさだけではなく、GKコーチ、ジョゼ・マリオのもとで、同じ年のライバル・川口能活と毎日並び、競い合った緊張感も今後につなげられる。

紅白戦でも、サブとしてではなく、前川、河野を常に意識し必死に食らいつく。トレーニングでは独自のパートを、当時広島のGKコーチで、後に2002年W杯日韓大会で代表GKコーチになった望月一頼(かずより、57)に頼んで指導してもらった。

マリオが行うブラジル式の特別に厳しいGK練習は、歴代、ヨーロッパタイプの組織サッカーで、GKを戦術の起点と考える広島では、あまり取り入れないメニューだった。しかし、休みなく短い距離でのシュートを受け、呼吸をあえてピークにして正しいキャッチングを体にたたき込む反復練習を、下田はクラブでも続けたかった。もしコーチに「何故、そんな練習を?」と聞かれ、「五輪代表で毎日行っていたからです」と答えれば、まるでクラブより代表での練習、代表GKコーチを尊重しているかのように受け取られかねない。ましてレギュラーではない若手がうまく説明するのはもっと難しい。しかし望月は理由も問わず、反復練習に納得するまで時間を割いてくれた。

「笑ってしまうんですが……」

今回の取材中、そう言って明かした。つい最近、望月から「そういえば、あの頃どうして、うちではやらなかった練習をやりたいと言ったんだ?」と、20年以上前の練習目的を初めて問われた。若手のチャレンジ精神を「うちの練習の原則は……」などと、一概に否定しないクラブカラーがのぞく。20年前の練習について、寡黙なGK同士、ずい分遅くなったが初めて振り返ったと下田は笑った。

第3GKを励ました森保の言葉

20歳が、もがき、前を行く2人の背中に手を伸ばそうと懸命になっている様子を見ていたMFがいた。森保一(51=日本代表監督)は、下田が加入した94年、当時2ステージ制だったJリーグ「サントリーシリーズ」優勝(監督バクスター)にボランチで貢献。自身が98年シーズンに京都に移籍するまでの3年間、第3GKが体現しようとした、いい意味での野心を注意深く見守っていた。

森保(右)は若き日の下田(左)を見守っていた(C)JFA

「追われる立場の者は、ベテランとして先を見ているからなかなか後ろは振り向けない。だから追う者の必死の様子には気付けないかもしれないな」

7歳上の、クラブを象徴するともいえる選手に、決して直接的ではなかったが正GKとの距離が縮まっていると励まされた言葉に、一層練習に打ち込んだ。

森保は、細かい表現は記憶していないが、当時、下田が懸命に前川、河野との距離を縮めようと挑んでいた様子は今でも目に浮かぶと振り返る。当時から監督としての視野を備えていたのだろう。

「口数は少ないですが、若い頃から芯の強さや負けず嫌いな性格は分かりました。練習の切れ間や、水分補給や雑談の時でさえ、誰かにボールを蹴られ、ゴールに入れられたくない、と、GKの厳しさや緊張感について話している記事を読む機会もありましたから。色々な経験を無駄にせず、伸びているなぁとシモを見ていましたね。足元の技術が高く、時代が求めるサッカーに敏感に対応していたのも印象的でした」

森保の予想通り、97年、第2GK・河野が名古屋に移籍し、98年には正GK・前川が肩の手術を受け長期離脱を余儀なくされると、当時のトムソン監督に買われ98年1stステージ初戦でついに先発に起用される。アトランタ五輪で1人出場できなかった悔しさを風化させず、安定した守備と、GKにも求められる戦術面の役割を持ち味に、正位置の座を固める。躍進は、2002年W杯日韓大会を目指していた日本代表監督、トルシエの目にも留まり、99年3月、国立競技場で行われる国際親善試合のメンバーに選出された。

日本代表でブラジル戦に先発

3月31日、初めての、そしてキャリア唯一となる日本代表Aマッチ出場試合の先発GKに起用された。

相手はブラジルだった。

「奇跡」と呼ばれた勝利のピッチには、五輪代表としては立てなかった。しかしA代表に初選出され、初出場の相手がブラジルになる。不思議な巡り合わせか、あるいは、努力に対する正当な評価として授かったチャンスか、どちらにしても、五輪帰国直後「悔しさや努力の過程を次につなげるように」と、面談で言われた助言には答えを出せた。95年のU-20ユース選手権(W杯)では準々決勝でブラジルに敗退(1-2)し、翌年はアトランタで勝利し(1-0)、今度はAマッチで初先発を任される。ブラジルにはサッカー人生の節目、節目で対戦する縁があるようだ。

A代表では5試合目となる王国との対戦に、国立競技場は5万3000人を超える観客で埋め尽くされた。しかし、緊張も、特別な興奮もなく落ち着いてアップをこなせたのはよく覚えている。代表GKコーチでもあった望月に、「見てみろ、スタジアムは本当に満員だ。でもこういう舞台に強いのがお前だもんな」と、笑顔でピッチに送り出された。

ブラジル戦で下田(左から2人目)は「落ち着いてプレーした」(1999年3月、国立競技場)=共同

「過去の対戦うんぬんよりも、94年は優勝、98年は準優勝とW杯2大会連続で決勝進出する強い相手に対し、とても落ち着いて構えられたのは今も忘れられません。負けましたが(0-2)、ああいう自信を選手に与えられる指導者を目指したいと、今強く思いますね」

A代表出場はこの試合限りだったが、Jリーグでは98年の1節から2001年の9節まで3年をかけて、連続118試合フルタイム出場を果たす。クラブの浮き沈みも味わった。02年には、接触で眼窩底骨折をし自らが負傷退場した最終節に敗れ、クラブ初のJ2への降格が決まった。移籍せずにJ2の厳しい日程、戦いに専念すると、PK阻止率100%の実績を築き、J2から1人、W杯ドイツ大会を目指す日本代表に選出された(監督ジーコ)。

度重なるケガにも苦しんだ。

Jリーグ通算200試合出場を果たした05年10月には、右ひざ後十字じん帯を断裂しこのシーズンはピッチに帰れずに終わってしまった。オフにはリハビリに時間をかけたが06年ごろから、今度は左ひざに痛みが出るようになり、08年は左ひざ軟骨損傷を手術しレギュラーの座も失う。広島に加入した1年目、ルーキーイヤー94年以来となるリーグ戦出場0試合に、引退が頭をかすめるようになった頃、指導者として広島に残るオファーを受けた。

「広島で生まれ、広島で育ててもらってプロになり、国際舞台にも立つ経験ができた。クラブには多くの素晴らしいGKが育つ。そういう環境で指導者を目指せるのは本当にありがたかった。オファーを受けて、コーチの下で指導勉強をしようと引退を決意しました」

08年、09年、10年と出場機会がなく、10年のシーズン終了と同時に引退する。

アトランタで世界の壁を知り、クラブでは日本を代表するGK2人を見上げ立ち尽くしたGKは、指導者としてのスタートでも再び、ぼう然と立ち尽くしていた。今度は、ライバルやプレーの話ではない。自分の指導力不足から、サッカーどころか無邪気に走り回っている子どもたちが相手だ。もちろん覚悟はしていた。しかしサッカーを指導するとは、これまでのどんな経験よりも難しいものに思え、途方に暮れてしまった。

=敬称略、続く

(スポーツライター 増島みどり)

下田崇
 1975年、広島市生まれ。小さいころは野球少年だったが、兄の影響で小学4年生でサッカーに転向し、ミッドフィルダーやフォワードでプレーする。広島皆実高校に入学後、監督の勧めで本格的にゴールキーパー(GK)を始める。94年、サンフレッチェ広島に入団。96年のアトランタ五輪代表に選ばれるも、川口能活氏の控えで出場はなかった。的確な判断と安定したプレーが特徴で、日本代表では98年から2006年まで、トルシエ監督、ジーコ監督に招集された。広島では98年から長期間、「GK王国」と呼ばれるチームで正GKとしてゴールマウスを守り続ける。特にJ2に降格した2003年シーズンにはPK阻止率100%という快挙を成し遂げ、1年でのJ1復帰に貢献する。10年シーズン終了後に引退。リーグ戦の出場はJ1が288試合、J2は43試合。広島のGKコーチを経て、17年12月、東京五輪代表世代のGKコーチに就任、18年4月からは日本代表GKコーチも兼任している。
増島みどり
 1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。

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