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「奇跡ではない」 五輪GKが見たブラジル戦勝利

サッカーGK 下田崇(2)

アトランタ五輪を「特別な経験だった」と振り返る下田崇(2019年8月、東京都文京区のJFAハウス)

サッカーの五輪代表と日本代表でGKコーチを務める下田崇(43)は、1996年アトランタ五輪では試合に出場できなかった。だがその経験は大きな財産となり、2018年のワールドカップ(W杯)ロシア大会で、アトランタ五輪でも監督だった西野朗から代表コーチとして呼ばれることになる。今回は王国ブラジルを下した「マイアミの奇跡」を下田の視点から振り返る。(前回は「『マイアミの奇跡』控えキーパー コーチで東京五輪へ」

◇   ◇   ◇

アトランタ五輪代表に選出された20歳の下田崇にとって、オリンピックは夢に見たような華やかな経験を積む舞台ではなかった。しかし、18人の代表中ただ1人出場機会を得られなかった3試合は、23年たった今でもなお、新たな気付きをもたらすほどの「特別な経験だった」と、43歳は振り返る。プロサッカー選手としてどう生きるか、GKの哲学を垣間見て、指導者になった後は、選手との向き合い方のヒントも探せた。指導者ライセンス講習とはまた違う教本は、自身の厳しい経験によって書かれたものでもある。

当時のGKコーチ、ジョゼ・マリオ(65)は、サッカー王国・ブラジルで現役としても、コーチとしても経験豊富なプロフェッショナルだった。「GKには先発もサブもない。常にGKチームとして最高の技術、メンタルを準備する」との方針から、オリンピック前の合宿でも、大会中も正キーパーとなった川口能活(44)と少しも変わらぬ厳しいトレーニングを続けた。

五輪代表のチームメートに刺激

出身地・広島でサッカーを始め、サンフレッチェと、地元一筋の若者は、チームメートたちの個性にも感心した。キャプテン・前園真聖のリーダーシップや、中田英寿、松田直樹らが自分の意見を周囲に伝えようとする意志の強さ。まだサッカーにも存在感にも自信を持てなかった頃、彼らの自信に満ちあふれた姿は刺激になった。

「メンバーは、皆、チームを少しでも良くしようと意見を言い合う。相手がブラジルでも少しも気後れしたところはありませんでしたし、時には監督にもズバッと考えを伝える。すごいなぁ、と。自分にはない強さだと思いましたね」

指導者になった下田。「五輪では毎日必死だった」(C)JFA

93年にJリーグがスタートし、23歳以下とはいえ、彼らにはプロ意識がすでに宿っていた。また、23歳以上の選手3人の出場が「オーバーエージ枠」で認められていたが、西野は結束を固めるためあえてそれを使わなかった。そうやって集まった代表は、さらに国際舞台で自分をアピールしようと挑んだ。こうしたチームカラーと下田は異なった。当時、「エキップメント」と呼ばれ、用具などの管理を担当した寺本一博(現在アディダス)はこんな証言をする。

「皆、いい意味での要求をしっかりと持ってアピールできる選手たちでした。でも、用具を担当している自分に対し、シモから何かこうしてほしい、これを準備してくれなどと求められた記憶が全くないのです。覚えているのはいつも黙々と、ただ淡々と、自分のやるべき任務をこなしていた姿。あの代表で寡黙な様子はむしろ印象的でした」

川口能活も、「20年以上たって改めて、シモが感情を顔に出さず落ち着き払い、常に自分を気遣ってくれた態度に深い敬意を抱く」と話している。厳しかったマリオのトレーニングで学び、1人出場できなかった悔しさを味わい得た教訓とは、自分がいるべき場所に立つ努力だと言う。GKコーチという存在がまだ浸透していなかった時代にゴールキーパーになり、マリオの練習で初めて徹底した基礎の反復練習やボールキャッチの正確さを教えられた経験は大きかった。

「GKはいるべき場所に立つ、それが大事なんだ、と。チームにも、そこに自分がいるからこその役割があります。あの代表で自分の役割とは、ヨシカツの出場が決まった時点で、いかにヨシカツに気持ち良くプレーをしてもらえるかでした。一方ではいつ、どちらが先発でもおかしくない、との緊張感を互いが持てる雰囲気を保つ。そう考えて、毎日必死だったように思います。ふて腐れている余裕なんてなかった」

そう言って、笑う。

「いるべき場所に立つ」

GKの技術でもあり、彼の生き方の足場とも聞こえる。土台はこの時すでに固められていたのかもしれない。

戦術、サッカーの難しさも、あのチームで学んだ。

ブラジルは「オーバーエージ枠」を使い、金メダルだけを狙いに来た。しかしそこには、王国だからこその綻びものぞいた。もっともそれはあまりに小さな針の穴のようで、突破するのは容易ではなかった。

ブラジルを破り飛び上がって喜ぶ川口能活(中央)ら五輪代表チーム(1996年7月)=共同

ブラジル戦前、西野らコーチングスタッフは、ブラジル守備陣の連係のもろさを選手に伝えた。特にGKジーダと、DFのアウダイールの間には連係ミスが起きる。そこを狙う。

川口の好セーブもあり前半を0-0でしのいだ後半27分、路木龍次が、左サイドから山なりのクロスをゴール前に送る。FW・城彰二がこれにヘディングで入ろうとした際、ミーティングで繰り返し説明を受けたGKとDFが重なって行く様子が、「まるでスカウティングビデオのように見えていた」と、下田は記憶する。会場となったフロリダ・オレンジボウルはカナリア色(ブラジル代表のチームカラー)で埋まったが、日本の得点シーンに一瞬、静まりかえる。

2人の衝突で無人となったゴール裏でアップ中だった下田は、伊東輝悦がボールを蹴り込んだ瞬間、「ヤッター!」と叫んでジャンプし、小躍りしながらもどこか冷静だった。それが奇跡のように思えなかったのは、一瞬の隙をつく場面を、チーム全員が長く共有し、繰り返し「絵」にしようと練習でも話し合いでも徹底していたからだ。

初めての大舞台、貴重な教訓を得た

周囲がたとえ奇跡と呼ぼうが、それは偶然にもたらされるのではない。準備の積み重ねもまた、アトランタで黙々と自分のいるべき場所を固めながら20歳が知った、サッカーの奥深さであった。

「ヨシカツのセーブにはゾクっとしました。でもそれも準備や立つべき場所の正確さの結果で、まぐれや奇跡じゃありません。今振り返ると、もちろん悔しい思いはありましたが、出場できなくても、あの年齢で本当に多くの貴重な教訓を得られた時間だったとよく分かります。自分にとって初めての大舞台で、自分が試合に出られなかった点を含めて、サッカーの怖さも知りましたから」

「怖さ」と呼ぶ経験は、今も常に忘れない指導者の柱となって胸に刻まれる。

アトランタでは初戦でブラジルを1-0で破り、ナイジェリア戦に敗れたものの、ハンガリー戦に勝利し、サッカーではグループリーグ突破に十分な勝ち点6を手にした。ところがこのDグループ3試合目で、日本、ブラジル、ナイジェリアが勝ち点6で並び、規定上、得失点差(ブラジルとナイジェリアはプラス2、日本は0)で決勝トーナメント進出を逸する。ナイジェリアが五輪初の金メダルを獲得し、ブラジルも銅メダル。終わってみればメダリスト2カ国がそろうという、考えられないような激戦区で戦った五輪だった。

例えば別組ではメキシコやアルゼンチン、ポルトガルが勝ち点5、ガーナは勝ち点4で抜けている。勝ち点6を奪っても決勝トーナメントに進出できなかった日本の存在は、これが国際サッカー連盟(FIFA)主催の大会ではなかったとはいえ、サッカー界で大きな話題となった。マイアミの奇跡に並び、「マイアミの不思議」と呼ぶ声もあったほどだ。

2018年ロシアW杯で、下田は、ハリルホジッチの解任を受けて代表監督に就任した西野の下、浜野征哉(46)と共にGKコーチに呼ばれた。22年前、28年ぶりとなる国際舞台を戦った監督とGKが、今度は同じスタッフとなって代表を率いる。その時、アトランタの苦い経験を思い出したという。

「代表コーチに呼んでもらってうれしいといった感情よりも、五輪で勝ち点6を取っても上がれなかったのだから、よほど気を引き締めてかからなければ、スタッフとしてわずかな油断も絶対に許されないと感じました。勝負は甘くない。何が起きてもおかしくない。国際舞台デビューがあの大会だったから、いつでもそう思い続けてこられたんでしょうね」

監督が持ち込みたかったのも、間違いなくそうした緊張感だったはずだ。

W杯2次予選のベトナム戦で試合を見つめる、タイ代表を率いる西野朗(2019年9月)=AP・共同

代表に呼んだのは「いいコーチだから」

監督との関係もずい分変わっていた。共によく話すタイプではないから、特別な会話はよく覚えていないと苦笑する。ただ西野のユーモアは理解している。「なんだシモ、そんなことも知らないの?」と、うれしそうに話を振ってくるに違いないと踏んで、グループ3試合の会場となる街の歴史やちょっとした情報はさりげなく仕入れて、食卓を囲んだ。大舞台で一度も出場機会を与えられなかったGKを、今度は代表コーチとして呼ぶ。西野にとってどんな判断だったのだろう。

「いいコーチだから。それだけだよ」

9月5日、タイ代表監督としてW杯2次予選の初戦、ベトナム戦(0-0、バンコク)に臨んだ西野に、やはり言葉は少なかった。それでもこう付け加えた。

「地元での五輪で、昔の自分たちと同じ世代を大舞台に立たせるなんて、そんなめぐり合わせはそうあるものじゃない。あれからずっと頑張ってきたから今があって、自分だってそういう姿に励まされている。彼らに負けないよう、頑張らなくちゃ、とね」

64歳のチャレンジャーは、同じ指導者としての下田を激励した。

アトランタ五輪後、同じ年のライバルでありJリーグでも同期となる川口と競った日々は終わった。しかし、GK王国と称されるサンフレッチェ広島に戻ると、新たな格闘が待ち受けていた。レギュラーを獲得するために前に立ちはだかっていた2人のGKに、どうすれば並び、追い越せるか、アトランタでの経験を噛みしめる間もなく、目の前の厚い壁を見上げていた。

=敬称略、続く

(スポーツライター 増島みどり)

下田崇
 1975年、広島市生まれ。小さいころは野球少年だったが、兄の影響で小学4年生でサッカーに転向し、ミッドフィルダーやフォワードでプレーする。広島皆実高校に入学後、監督の勧めで本格的にゴールキーパー(GK)を始める。94年、サンフレッチェ広島に入団。96年のアトランタ五輪代表に選ばれるも、川口能活氏の控えで出場はなかった。的確な判断と安定したプレーが特徴で、日本代表では98年から2006年まで、トルシエ監督、ジーコ監督に招集された。広島では98年から長期間、「GK王国」と呼ばれるチームで正GKとしてゴールマウスを守り続ける。特にJ2に降格した2003年シーズンにはPK阻止率100%という快挙を成し遂げ、1年でのJ1復帰に貢献する。10年シーズン終了後に引退。リーグ戦の出場はJ1が288試合、J2は43試合。広島のGKコーチを経て、17年12月、東京五輪代表世代のGKコーチに就任、18年4月からは日本代表GKコーチも兼任している。
増島みどり
 1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。

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