日系移民、アマゾン移住90年 自然との共生探る

2019/9/21 8:40
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ブラジルで熱帯雨林の伐採や森林火災が国際的な問題となる中、森の中で農作物を育てる「アグロフォレストリー」と呼ばれる農業が注目を集めている。手掛けるのはアマゾン地域に90年前に移住した日系移民たちだ。森林を破壊せず農家の収入を底上げできる上、森林開発を前提とした畜産や穀物生産に比べ持続可能性が高い。かつて「緑の地獄」と呼ばれたアマゾンで自然との共生を目指す、日系移民たちの現在を追った。

一歩踏み出すと右足が枯れ葉に埋まり、また一歩踏み出した左足は枯れ枝を踏み抜いた。頭上には樹木が生い茂る。高松寿彦氏(74)の「農場」は一見、野生の森林と変わらぬたたずまいだ。「これがカカオで、あれはデンデ(アブラヤシ)、あそこに見えるのがアサイーだ」。説明を受けてはじめて、木々に果実がなっていると知った。

一見、ただの森林に見える高松氏の農場だが様々な作物を平行して植えている(ブラジル北部トメアス)

一見、ただの森林に見える高松氏の農場だが様々な作物を平行して植えている(ブラジル北部トメアス)

高松氏が農業を営むブラジル北部トメアスでは、このように森の中で複数の農作物を平行して育てるアグロフォレストリーが定着している。カカオのような永年性作物を軸に、コショウやマラクジャ(パッションフルーツ)など収穫期が異なる複数の作物を植える。単一作物を集中して植える通常の畑に比べ手がかかるが、個々の作物は収穫期が異なるため、収入源を多様化できるというメリットがある。

現在、ブラジルではアマゾンの乱開発が国際的な非難の的になっている。木が切り倒されたり燃やされたりする背景には、牧畜や大豆など、巨大な土地を必要とする農畜産業の存在がある。アグロフォレストリーは小規模な土地でもできる上、森林を残す持続可能な農業のあり方として地元のパラ州政府をはじめ、南米各地から視察が訪れる。トメアス総合農業協同組合の乙幡敬一アルベルト理事長(53)は「小規模な農家でも取り組め、収穫などで地元に雇用も生むためメリットは大きい」と説明する。

トメアスの日系移民は多種多様な農作物を育てている(ブラジル北部トメアス)

トメアスの日系移民は多種多様な農作物を育てている(ブラジル北部トメアス)

現在、トメアス農協の組合員は3分の1が非日系のブラジル人だ。州政府の要請でブラジル人にアグロフォレストリーの指導を行う小長野道則前理事長(61)は「我々はブラジルという国に受け入れてもらった。今こそ恩返しをする時だ」と話す。目先の収入目当てに貧困層が森林伐採に加担する傾向がある中、「貧しい人でも取り組める農業として普及に取り組みたい」と意気込む。

日本人の移住から90年がたち、存在感を発揮するトメアスだが、ここに至るまでの道のりは苦難の連続だった。日本人が移民として到着した1929年には道路もなく、州都ベレンから船で14時間かけて川を上ってたどり着く、ブラジル人にとっても秘境の地だった。

移民への寄せ書きが書かれた国旗。多くの移民は貧しい農家だった(ブラジル北部トメアス)

移民への寄せ書きが書かれた国旗。多くの移民は貧しい農家だった(ブラジル北部トメアス)

開拓者として集められた日本の貧しい農家に用意されたのは、生活用の井戸すら十分に用意されていない密林だった。「ブラジルではすぐに土地が持てる」と誇大広告に釣られた人々は話が違うと憤りながら斧(おの)をふるい、森林を開拓した。第1回の移住者として2歳でトメアスにわたった山田元氏(92)は「そこらに猿がいて、人間が住むような所ではなかった」と振り返る。

必死で開拓を進めたにも関わらず、農業は当初の見込みが外れて失敗続き。マラリアなどの風土病で家族を失う移住者も相次ぎ、トメアスは「緑の地獄」と呼ばれた。開拓を主導した鐘淵紡績(現クラシエホールディングス)も進出から6年後となる35年に失敗を認め事実上の撤退を決め、8割近い入植者が去った。「残ったのは他に行くあてがない貧しい人だけ」(山田氏)というありさまだった。

90年前にブラジルに移住した山田元氏(92)は「人間が住むような所ではなかった」と振り返る(ブラジル北部トメアス)

90年前にブラジルに移住した山田元氏(92)は「人間が住むような所ではなかった」と振り返る(ブラジル北部トメアス)

転機となったのが、第2次世界大戦後のコショウ価格の高騰だ。コショウの産地だった東南アジアが戦禍で荒廃し、代替産地としてトメアスが台頭。50年代にコショウは「黒ダイヤ」と呼ばれ、莫大な富をもたらした。日本からの移住も再開され、最盛期の60年代には約2千人の日本人・日系人が住んでいたという。

もっとも、コショウブームも長く続かなかった。60年代後半には病害が発生し、コショウの収穫が激減。戦後移民の峰下興三郎氏(80)は「ここで病害が起きたら次、とあちこちに移りながらコショウを育てたが、全部駄目だった」と話す。栄枯盛衰とその後の試行錯誤の末、たどり着いたのがアグロフォレストリーだった。

農協では果実をジュースに加工し、付加価値を高めて出荷する(ブラジル北部トメアス)

農協では果実をジュースに加工し、付加価値を高めて出荷する(ブラジル北部トメアス)

現在の成功の背景にも、日本とのつながりがある。乙幡理事長は「コショウが駄目になって組合が潰れかかっていた時、助けてくれたのは国際協力機構(JICA)だった」と明かす。現在、農協は組合員から集荷したアサイーなどの果物をジュースに加工して出荷するが、こうした設備の導入はJICAの支援がきっかけだ。販路の面でも、日本企業との付き合いも深い。

農協の近くには日本語学校があり、JICAから派遣された教師が日系人の子弟に日本語を教えていた。「将来は日本の大学で勉強したい」。子どもたちは日本語で話し、好きなアニメやゲームの話で盛り上がる。

もっとも、日本とのつながりが深い故の悩みもある。3世までの日系人は「定住者」などの在留資格で日本で働けるため、日本へと渡った日系人も多い。農協の組合員の平均年齢は62歳。後継者不足は深刻な問題だ。乙幡理事長は「もっと稼げる、子どもたちにとって魅力的な農業にしなければ」と90周年の先を見据えていた。

(トメアスで、外山尚之)

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