明治維新の恩讐超え建設 京都救った琵琶湖疏水
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2019/9/19 7:01
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琵琶湖の水を京都に取り込む琵琶湖疏水(そすい)は、明治維新後に活気を失った京都を救った水路だ。比叡山から続く山塊の南端を流れ、鴨川に合流するまでの第1疏水が完成したのは1890年(明治23年)。130年の節目となる2020年に向けて、近代化遺産として見直す機運が高まっている。

大津・三保ケ崎の取水口から京都・蹴上(けあげ)まで8キロの道のりで、水路の高低差は4メートルしかない。動力や電力の大きなエネルギーを得るには、落差をロスせずに水を導く必要があるためだ。船の行き来にはインクライン(傾斜鉄道)で対応した。近代化へ歩み始めたばかりの日本で、5年にわたる大土木工事に挑戦する狙いは何だったのか。

「無尽蔵の石炭山」

東京遷都により天皇や公家、商人らが去り、当時の京都は最大級の危機にあった。知事だった北垣国道(くにみち)は工業化に都市の復興を懸け、疏水建設の意義を「京都の中央に無尽蔵なる一大石炭山を開造」と強調した。内陸にあるため産業物資の輸送が困難な京都にとって、水車動力や水力発電、輸送力を得ることは巨大な炭鉱が出現するのに等しかった。

蹴上から水流を分岐させるため、南禅寺境内に完成した水路閣(1888年、京都市上下水道局・田邉家資料)

蹴上から水流を分岐させるため、南禅寺境内に完成した水路閣(1888年、京都市上下水道局・田邉家資料)

設計と工事を担ったのは工部大学校(現東大工学部)を卒業したばかりの田邉朔郎(たなべさくろう)だった。疏水の計画を書いた卒論が北垣の目に留まったといわれる。長さ2436メートルの第1トンネル工事では、山の両側から横穴を掘るだけでなく、山の上から竪坑(たてこう)を掘って横に掘り進む工法で効率を高めた。

朔郎起用の理由を卒論とした通説は誤りと主張する人物がいる。北垣のひ孫で、朔郎の孫に当たる田邉康雄氏だ。疏水完成後に朔郎は北垣の娘と結婚している。北垣の日記によると、着工の3年前、東京で榎本武揚と懇談し、1週間後に朔郎が会いに来たのが始まりという。工部大学校長だった大鳥圭介の指示だった。

水力発電で成功

かつて榎本と大鳥は旧幕府軍として戊辰(ぼしん)戦争を戦い、朔郎の叔父で旧幕臣だった田邉太一は欧米列強との交渉で榎本らを側面支援した。北垣は但馬国(現兵庫県)出身だが、幕末に長州派の志士として活躍。維新後、北海道開拓使を同時期に務めた榎本と親交があった。康雄氏は「幕府と長州による恩讐(おんしゅう)を超えた協力が京都を救った」と、背景にある歴史の縁を指摘する。

当初は水車動力を中心に想定していたが、米国を視察した朔郎らの提言で水力発電を導入したことも疏水成功の要因だ。売電による収益で事業が黒字化し、市債を早期に完済。この実績がフランスでの第2疏水の資金調達につながる。

1912年(明治45年)に完成した第2疏水によって取水量が拡大。発電能力も増した。一連の復興プロジェクトは「京都策」と呼ばれた。琵琶湖疏水記念館の久岡道武・資料研究専門員は「疏水がなければ、工場立地のための原料調達や電力供給ができず、京都市が6大都市から転落する可能性もあった」と話す。

人や物資を運んだ舟運は戦後に途絶えるが、2018年に春秋限定の観光船として復活した。19年春までの3シーズンで1万7千人近くが乗船し、乗船率は9割を超える。10月からは3隻目を投入する予定だ。疏水を管理する京都市上下水道局は「美しい景色を眺めながら、疏水建設の意義、京都近代化の歴史に思いを巡らせてほしい」と話す。

「楽百年之夢」。北垣が落款に使った言葉を記した扁額(へんがく)が疏水記念館の近くにある。願い通りに京都の発展を支えた疏水は100年を超え、新たな輝きを添えようとしている。

(木下修臣)

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