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「マイアミの奇跡」控えキーパー コーチで東京五輪へ
サッカーGK 下田崇(1)

Tokyo2020
(2/2ページ)
2019/9/18 5:30
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下田が鹿島で日本代表の合宿をスタートさせたちょうど同じ時間、川口能活は、東京を狙う中核となる22歳以下の代表「U-22」を率いて、成田空港からメキシコへ向かおうとしていた。

五輪と代表両チームのGKコーチを兼務する

五輪と代表両チームのGKコーチを兼務する

■2人のGK、ともに五輪代表コーチに

森保と同じく、下田も代表と五輪両チームのGKコーチを兼務している。W杯2次予選と五輪代表の遠征が重なった事情から、監督が、「今回のように両代表の活動が重なる時には、(川口に)チームを手伝ってもらう」と決断。日本が28年ぶりに復帰を果たした五輪で、日々、緊張感を携え、同じ年齢のライバルとして競い、未知の戦いに挑んだ2人が、今度はコーチとして互いを支え合う。そして自分たちが初めて扉を開いた五輪の舞台へ、選手たちを送り出す。

ボールは、ゴールキーパー2人のサッカー人生の間を再び転がり始め、23年の時間を運命的に結び付けた。

今度はあの時の先発と、サブの立場はまるで逆転したかのようだ。下田がA代表に帯同するため五輪を指導できない場合に、川口がその穴を埋める形で五輪代表のGKコーチを務める。森保は、知名度や経験を重視したのではなく、2人が信頼し合ってGKをまとめていける「チーム」であると確信したから、ダブルコーチ制を選択したはずだ。そうでなければ、選手が戸惑う。

2人の間でボールが再び小気味よく動き出しためぐり合わせを、川口は「本当にありがたいチャンスだと思っている」と感謝する。出発時に成田空港で取材を受けながら、友人として長く呼び合ってきたはずの「シモ」ではなく、「下田コーチ」と立てたのは、彼なりのけじめだったのだろう。

「下田コーチとはコミュニケーションを取って、若い選手たちに何を伝えていくかを話し合っています。僕らもそうでしたが、この年代なら多少の無理をしても体は動きます。コンディションなどであまり繊細になり過ぎず、今置かれている状況、そこが苦しくてもベストを尽くす。そういうメンタルも大事だと考えています」

「苦しい状況でベストを尽くす」とは、技術、戦術より、彼らが日本代表として重い扉を開ける上でもっとも重要なテーマであったのかもしれない。「魂」に触れるこの部分こそ、2人が五輪代表に伝えたいメッセージなのだ。

下田は、川口が「サブとして穴を埋める」といった表現をされるのを嫌い「全く違います」と、役割分担を強調する。

アトランタ五輪当時の下田(右)と川口=共同

アトランタ五輪当時の下田(右)と川口=共同

一方川口は、「あくまでもシモの代わりとしてしっかり務めたい」と言い切る。アトランタで下田が当たり前のように振る舞っていた態度に、新しい関係がスタートした今、深い敬意を抱く。思い出すのは、いつも快適な距離感を取ってくれた様子だ。ある時はドリンクをさりげなく差し出し、緊張感を解いて試合に送り出してもらった。マリオの厳しい練習に同じに耐えながら、チームで1人だけオリンピックのピッチに立てなかったGKが、どれほど悔しい思いをしていたのだろうと、時間が経過するにつれて思いをはせる。

「みんな若くて、オレが、オレがと、いい意味で貪欲でしたよね。僕があの時、シモの立場だったら、あんな態度を取れただろうか、と、今になって、ふと考えるんです。果たして自分にあんな振る舞いができたのだろうか、って。無理だったと思う。だから今度は僕がシモに代わってサポートします」

そう話した。

U-22代表は、北米遠征を1分け1敗、無得点の課題を残して終え、日本代表はカタールW杯2次予選でミャンマーに2-0と無失点で勝利した。

アトランタ五輪にただ1人出場できなかった20歳が、今度はコーチとして若き代表を率いて五輪の舞台に戻る。文章にすればわずか数十字の、しかし決して平たんではない時間について、「口下手なもんでうまく話せるかどうか……」と、寡黙な男はシャイな笑顔を浮かべた。

「あのオリンピックの経験が、指導者になってみて、いかに貴重なものだったかよく分かりました」

たとえ言葉は少なくても、アトランタ、その後の23年の経験は雄弁だった。

=敬称略、続く

(スポーツライター 増島みどり)

下田崇
1975年、広島市生まれ。小さいころは野球少年だったが、兄の影響で小学4年生でサッカーに転向し、ミッドフィルダーやフォワードでプレーする。広島皆実高校に入学後、監督の勧めで本格的にゴールキーパー(GK)を始める。94年、サンフレッチェ広島に入団。96年のアトランタ五輪代表に選ばれるも、川口能活氏の控えで出場はなかった。的確な判断と安定したプレーが特徴で、日本代表では98年から2006年まで、トルシエ監督、ジーコ監督に招集された。広島では98年から長期間、「GK王国」と呼ばれるチームで正GKとしてゴールマウスを守り続ける。特にJ2に降格した2003年シーズンにはPK阻止率100%という快挙を成し遂げ、1年でのJ1復帰に貢献する。10年シーズン終了後に引退。リーグ戦の出場はJ1が288試合、J2は43試合。広島のGKコーチを経て、17年12月、東京五輪代表世代のGKコーチに就任、18年4月からは日本代表GKコーチも兼任している。
増島みどり
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。

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