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「マイアミの奇跡」控えキーパー コーチで東京五輪へ

サッカーGK 下田崇(1)

「緊張感を大事にしている」と話す、サッカー日本代表GKコーチの下田崇(2019年8月、東京都文京区のJFAハウス)

1996年アトランタ五輪で王者ブラジルを1-0で下した「マイアミの奇跡」をベンチで見つめていた男がいる。銅メダルを獲得した68年メキシコ五輪以来、実に28年ぶりに国際舞台に臨んだ若き代表GK・下田崇(しもだ・たかし、43)は、「GK王国」と呼ばれるサンフレッチェ広島で長年、背番号1を背負ったが、五輪では出番がなかった。2010年に引退すると指導者としての手腕を発揮し、現在は来年の東京を狙う五輪代表と日本代表でコーチを兼務する。華やかなだけではない五輪を経験したアスリートの引退後をたどる「未完のレース」を、スポーツライターの増島みどりが連載する。

◇   ◇   ◇

9月10日、東京文京区にある日本サッカー協会(JFAハウス)殿堂では、毎年「サッカー協会創立記念日」に合せて掲額式典が行われる。98年目の今年、殿堂入りを果たした1人に、アトランタ五輪代表監督を務めた西野朗(64=現・タイ代表監督)がいる。式典中、未知の舞台に果敢に挑んだブラジル戦ほかの映像が流れると、出席者たちからまるでつい最近のような熱い拍手が湧き起こった。今も、日本サッカー史に輝き続ける3試合270分である。しかし西野が率いたチームは、ブラジルを破ったジャイアントキリングさえも序章に収め、若き選手たちはさらに物語を進めた。98年ワールドカップ(W杯)フランス大会初出場の原動力となり、さらに2002年日韓W杯開催国にまで日本サッカーを一気に押し上げた。

激動の隆盛期の起点から23年がたった9月、アトランタ五輪代表GK・下田崇は、日本代表が7大会連続出場を目指す「2022年W杯カタール大会」に向かって鹿島での合宿初日を迎えていた。

昨年、前監督・西野の下、コーチングスタッフの一人としてロシアW杯を経験しているが、予選から3年も先を目指すワインディングロードを戦うのは、監督・森保一(51)とも初めて臨む大仕事となる。

欧州クラブでプレーする選手の参加は過去最多19人となり、中には、史上最年少で日本代表公式戦にデビューした久保建英(18=マジョルカ)ら東京五輪を狙うメンバーも含まれる。各リーグ、各世代、それぞれの経験と目標、全てを融合する代表で、下田はコーチとしてGK陣を束ねる。

ロシアでは4試合全てに先発した川島永嗣(ストラスブール)は36歳のベテラン。30歳の権田修一(ポルティモネンセ)は中堅、シュミット・ダニエル(27)は今季、ベルギーのシントトロイデンに移籍した。練習前も、何か大声で指示するような場面はなく、黙々と準備を行い、トレーニングに入って行く。しかしどの年代でも、目指す試合のレベルが違っていても、追い求める信念は変わらない。

「GKはたった1本のミスで試合を失うポジションだ」

「コーチとしていい緊張感を生み出せるようでいたいといつも思っています。例えば、どこか緩んだ雰囲気の中でボールをキャッチングしても、それは本番では通用しない。たった1本のミスで試合を失うポジションだからこそ、これが試合だ、と思う緊張感を持つのもGKの大事なトレーニングになる。生活でも、選手との距離をどう取るかを考えます」

そう話す。

広島での現役時代、共に戦った森保は、当時地元で目にした、寡黙な男の印象的なエピソードが忘れられないと言う。練習の合間、水分補給中でも、監督から注意を受けていても、練習がなかば終わりかけチームメートがボールで遊んでいるような場面であっても、「絶対にゴールにボールを入れさせたくない」と、緊張感を持ってゴールを見ていると明かしていた。ゴールを守る。その任務にかける、恐ろしいほどの情熱についてである。

「緊張感を保つ」とは、自身がユース年代から積んだ経験にもよる。

アトランタ五輪、ただ1人ピッチに立てなかった

W杯は国際サッカー連盟(FIFA)の大会のため23人を登録できるが、五輪規則では18人のためGK2人で臨んだ。18人中17人が五輪のピッチに立ったが、ただ1人、下田には出場機会はなかった。同い年で3試合にフル出場したGK・川口能活(44)と、GKコーチのジョゼ・マリオ(65、ブラジル)3人で築き上げた「GKチーム」が大切にしたのもやはり、緊張感であった。マリオは「どうせ自分はサブだから」といった前提の甘えを、たとえ若くとも2人に許さなかったのだ。

「どちらかが試合に出る。しかし、私が2人に常に言い続けたのは、2人ともが試合に出るためにここにいるんだとの緊張感だった。だから、いつ、どんな場面でも、監督に呼ばれれば全く同じ準備ができていた。彼らは、驚くほど忠実に、果敢にその要求に応えて成長してくれた」

現在もブラジル・サンパウロ州でクラブのGKコーチをまとめる統括マネジャーを務めるマリオはそう話し、まだ大舞台の経験などなかった2人と過ごした日々をいとおしそうに振り返る。

日本サッカー史上、今も色あせない「マイアミの奇跡」と呼ばれたブラジル戦での勝利も(1-0)、次のナイジェリア戦(0-2)も、ハンガリーとのグループリーグ最終戦(3-2)も、アップ中も、手の届くところにあったゴールには立てなかった。だから帰国後、「自分はオリンピックには出ていないので特にお話しできるものもないんです」と、取材を受けなかったという。行ったが試合はしていないとの本心からだ。

下田が鹿島で日本代表の合宿をスタートさせたちょうど同じ時間、川口能活は、東京を狙う中核となる22歳以下の代表「U-22」を率いて、成田空港からメキシコへ向かおうとしていた。

五輪と代表両チームのGKコーチを兼務する

2人のGK、ともに五輪代表コーチに

森保と同じく、下田も代表と五輪両チームのGKコーチを兼務している。W杯2次予選と五輪代表の遠征が重なった事情から、監督が、「今回のように両代表の活動が重なる時には、(川口に)チームを手伝ってもらう」と決断。日本が28年ぶりに復帰を果たした五輪で、日々、緊張感を携え、同じ年齢のライバルとして競い、未知の戦いに挑んだ2人が、今度はコーチとして互いを支え合う。そして自分たちが初めて扉を開いた五輪の舞台へ、選手たちを送り出す。

ボールは、ゴールキーパー2人のサッカー人生の間を再び転がり始め、23年の時間を運命的に結び付けた。

今度はあの時の先発と、サブの立場はまるで逆転したかのようだ。下田がA代表に帯同するため五輪を指導できない場合に、川口がその穴を埋める形で五輪代表のGKコーチを務める。森保は、知名度や経験を重視したのではなく、2人が信頼し合ってGKをまとめていける「チーム」であると確信したから、ダブルコーチ制を選択したはずだ。そうでなければ、選手が戸惑う。

2人の間でボールが再び小気味よく動き出しためぐり合わせを、川口は「本当にありがたいチャンスだと思っている」と感謝する。出発時に成田空港で取材を受けながら、友人として長く呼び合ってきたはずの「シモ」ではなく、「下田コーチ」と立てたのは、彼なりのけじめだったのだろう。

「下田コーチとはコミュニケーションを取って、若い選手たちに何を伝えていくかを話し合っています。僕らもそうでしたが、この年代なら多少の無理をしても体は動きます。コンディションなどであまり繊細になり過ぎず、今置かれている状況、そこが苦しくてもベストを尽くす。そういうメンタルも大事だと考えています」

「苦しい状況でベストを尽くす」とは、技術、戦術より、彼らが日本代表として重い扉を開ける上でもっとも重要なテーマであったのかもしれない。「魂」に触れるこの部分こそ、2人が五輪代表に伝えたいメッセージなのだ。

下田は、川口が「サブとして穴を埋める」といった表現をされるのを嫌い「全く違います」と、役割分担を強調する。

アトランタ五輪当時の下田(右)と川口=共同

一方川口は、「あくまでもシモの代わりとしてしっかり務めたい」と言い切る。アトランタで下田が当たり前のように振る舞っていた態度に、新しい関係がスタートした今、深い敬意を抱く。思い出すのは、いつも快適な距離感を取ってくれた様子だ。ある時はドリンクをさりげなく差し出し、緊張感を解いて試合に送り出してもらった。マリオの厳しい練習に同じに耐えながら、チームで1人だけオリンピックのピッチに立てなかったGKが、どれほど悔しい思いをしていたのだろうと、時間が経過するにつれて思いをはせる。

「みんな若くて、オレが、オレがと、いい意味で貪欲でしたよね。僕があの時、シモの立場だったら、あんな態度を取れただろうか、と、今になって、ふと考えるんです。果たして自分にあんな振る舞いができたのだろうか、って。無理だったと思う。だから今度は僕がシモに代わってサポートします」

そう話した。

U-22代表は、北米遠征を1分け1敗、無得点の課題を残して終え、日本代表はカタールW杯2次予選でミャンマーに2-0と無失点で勝利した。

アトランタ五輪にただ1人出場できなかった20歳が、今度はコーチとして若き代表を率いて五輪の舞台に戻る。文章にすればわずか数十字の、しかし決して平たんではない時間について、「口下手なもんでうまく話せるかどうか……」と、寡黙な男はシャイな笑顔を浮かべた。

「あのオリンピックの経験が、指導者になってみて、いかに貴重なものだったかよく分かりました」

たとえ言葉は少なくても、アトランタ、その後の23年の経験は雄弁だった。

=敬称略、続く

(スポーツライター 増島みどり)

下田崇
 1975年、広島市生まれ。小さいころは野球少年だったが、兄の影響で小学4年生でサッカーに転向し、ミッドフィルダーやフォワードでプレーする。広島皆実高校に入学後、監督の勧めで本格的にゴールキーパー(GK)を始める。94年、サンフレッチェ広島に入団。96年のアトランタ五輪代表に選ばれるも、川口能活氏の控えで出場はなかった。的確な判断と安定したプレーが特徴で、日本代表では98年から2006年まで、トルシエ監督、ジーコ監督に招集された。広島では98年から長期間、「GK王国」と呼ばれるチームで正GKとしてゴールマウスを守り続ける。特にJ2に降格した2003年シーズンにはPK阻止率100%という快挙を成し遂げ、1年でのJ1復帰に貢献する。10年シーズン終了後に引退。リーグ戦の出場はJ1が288試合、J2は43試合。広島のGKコーチを経て、17年12月、東京五輪代表世代のGKコーチに就任、18年4月からは日本代表GKコーチも兼任している。
増島みどり
 1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師。

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