2019年9月18日(水)

戦後知識人のあり方を考え続けた池内紀氏

文化往来
2019/9/7 6:00
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ドイツ文学者の池内紀氏が死去した。ウィーンの世紀末文学の研究から出発し、ゲーテやカフカなどドイツ語の重要な文学作品の翻訳を数多く手がけた。ドイツ文学の重厚なイメージを覆す平明な訳文が支持を得たが、その文筆活動の根底には、戦後社会において知識人はどうあるべきかという深い自問があった。

池内氏はドイツ文学の翻訳だけでなく、軽妙なエッセーも数多く執筆した(2016年撮影)

池内氏はドイツ文学の翻訳だけでなく、軽妙なエッセーも数多く執筆した(2016年撮影)

マイナーな世紀末文学を研究対象に選んだのは、上の世代の研究者への不信が理由だった。ドイツ文学研究の世界では、戦後に転向した研究者がいる。戦中はナチスの翼賛的な文学を称揚していたのに、手のひらを返したように平和主義を唱えだした。学界の本流への静かな反発が文学者としての原点にあった。

オーストリア留学中の1968年、隣国のチェコスロバキア(当時)で起きた自由化運動「プラハの春」とソ連の軍事侵攻を見守った。「権力が人間を押しつぶしていくさまを見た。歴史に立ち会っている生々しい感覚だった」

そうした経験が、不条理を描いた作家カフカの研究・翻訳に向かわせたのは自然なことだっただろう。「カフカ小説全集」はこの作家の作品に全く新しい命を吹き込む訳業だった。原文が持っているおかしみやとぼけた味わいを再現した翻訳によって、日本の読者はカフカ作品の本質に初めて触れ得たのではないか。戦後のドイツ社会をグロテスクに活写したギュンター・グラスの大作「ブリキの太鼓」の翻訳も、声低く社会への異議申し立てを続けた池内氏らしい仕事だった。

ひなびた温泉宿をこよなく愛し、旅をテーマにした軽妙なエッセーも多い。何でもない場所に思いがけない魅力があり、そこに暮らす人々に小さな物語がある。それも池内氏が教えてくれた大切なことだった。

(干場達矢)

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