大阪と堺、川を渡ると別世界? 大和川の歴史映す
とことん調査隊

関西タイムライン
コラム(地域)
2019/8/27 7:01
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大阪市と堺市を隔てて東西に流れ、大阪湾に注ぐ大和川。堺市などで取材をしていると「川を渡ると世界が変わる」と話す人にしばしば出会う。なぜ、分断の象徴のように言われるのか、探ってみた。

「大和川を渡るとホッとする」。浪曲師の春野恵子さんは堺市で憧れの師匠に稽古をつけてもらい、東京出身だが堺が第二の故郷になった。その実感を込めた言葉だ。

「大阪は『北高南低』と言われる。北は元気だが、大和川を渡ると南大阪には元気がない」。堺市の永藤英機市長が22日の記者会見でこう語った。南大阪の各市町村と連携を強めるという市政方針を説明した際に出てきた言葉だ。

大和川を渡る時の思いは人それぞれだが、大阪市と堺市は同じ大阪府内にあり、ともに政令指定都市だ。なぜ差異が強調されるのか。

「三里違て大坂(大阪)は各別」。約12キロしか離れていないが、大阪と堺は全く異なる。江戸時代、既にこう断言した人が浮世草子作者の井原西鶴だ。「日本永代蔵」によれば大阪の商人は派手で刹那的な面があるが、堺の商人は表向き質素で堅実だという。

近世の日本文学に詳しい森田雅也・関西学院大学教授は「中世に南蛮貿易で栄えた堺から見れば、大阪は関ケ原の戦いの後に栄えた新興都市」と解説してくれた。

実は西鶴が生きた1600年代まで大和川は分断の象徴ではなかった。奈良に源流をもつ大和川は元来、今の大阪府柏原市から北上し、大阪城の北で淀川に合流していたからだ。しかし洪水対策や新田開発のため1704年に付け替え工事が行われ、現在の流路に変わった。気風の違いに物理的な隔たりが加わったといえる。

今年8月1日の住吉祭神輿渡御=住吉大社提供

今年8月1日の住吉祭神輿渡御=住吉大社提供

堺市博物館の矢内一磨学芸員は「付け替え前、堺は住吉大社(大阪市)と一体の文化圏を形成していた」と話す。その証しが毎年8月1日に行われる住吉祭神輿渡御(みこしとぎょ)だ。住吉大社から堺市の宿院頓宮まで神輿を担ぐ神事で、千年以上続いているという。大和川の付け替え後は神輿を担いで川を渡る勇壮さが注目を集めた。

神事は続いたが、今の大阪市と堺市の交流は薄れていく。柏原市立歴史資料館の安村俊史館長によると「付け替え工事から明治時代になるまで、新しい大和川に橋は1つしか架けられなかった」ため、人々が行き来しにくくなったからだ。矢内氏は「堺は東の奈良や南の泉州とのつながりを強めていった」とみる。

時は流れて大正後期から昭和初期。近代都市として急成長した大阪市は市域を積極的に拡張し、1925年には人口が東京市を上回り、日本一になった。安村氏は「個人的な想像だが」と断りつつ「付け替え工事がなかったら、堺市はなくなっているのではないか」と話す。川の付け替えで疎遠になったため、大阪市への吸収を免れた可能性があるとみる。

戦後の高度成長で大和川が汚染されたことも、両岸の人たちの距離感を広げたようだ。大和川市民ネットワークの小松清生事務局長は「戦後間もない頃は魚が捕れる魅力的な川で、川岸に人が集まっていた」と話す。70年ごろに「渡るだけの汚れた川」(小松さん)になったが、今は下水道の整備や流域各地での清掃活動などにより、子どもが遊べる川によみがえった。

堺市は現在、大和川の南側でサイクリングなどが楽しめる施設を設ける計画を進めている。整備が進めば7月に世界文化遺産に登録された百舌鳥(もず)・古市古墳群の「百舌鳥エリアと古市エリアを自転車で行き来しやすくなる」(堺市の加勢英哉・大和川線推進室長)。分断の川から人が集い、交流する川へ。大和川は新たな歴史を刻めるだろうか。

(塩田宏之)

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