大阪大空襲、体験描いた絵画300枚 記憶を次代に
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関西タイムライン
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2019/8/15 7:01
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「あなた、人の話を聞いているばかりじゃなくて、自分の体験を描いてよ」。京都市南区の東村禎三さん(95)は20年ほど前、「大阪大空襲の体験を語る会」代表の金野紀世子さん(故人)からこう言われた。語る会の催しに参加し、話をする間柄になっていた。

空襲を体験した人たちが寄贈した体験画(大阪市中央区)

空襲を体験した人たちが寄贈した体験画(大阪市中央区)

小学生の時以来、絵を描いたことはなかったが、75歳から絵画教室に通って油絵を習い、1945年6月1日、当時働いていた大阪市此花区の工場で遭遇した大空襲の記憶をモチーフにした絵を描いていった。

B29から雨のように降り注ぐ焼夷(しょうい)弾、焼死した人の苦悶(くもん)の表情、死んで異常に膨らんだ馬――。目に焼き付いている地獄の光景だ。燃えていない場所を探し、必死で逃げた。これまでに描いた5枚の絵は大阪国際平和センター(ピースおおさか)に寄贈した。

■34万戸超が焼失

太平洋戦争末期、米軍の本土爆撃は激しくなり、大阪府域は約50回空爆を受けた。死者・行方不明者は1万5千人以上、焼失家屋は34万戸以上に上り、都心部は焼き尽くされた。100機以上による攻撃は大空襲と呼ばれ、8回あった。

大阪の「語る会」は71年に活動を始めた。集めた体験記を冊子にしたり、語る催しを開いたりした後、81年と94年に「体験画」を募集。会員自身や外部の人が描いた約300枚はピースおおさかに寄贈され、同館は複製作品を展示したり、自治体に貸し出したりして活用している。

主に画用紙を使った体験画には、作者が目にした悲惨な光景が描かれている。

大阪市港区に住み軍需工場に勤労動員されていた金野さんは、そこで遭遇した6月1日の大空襲の体験を何枚も描いている。空を覆い尽くすB29、逃げ惑う人々、翌日天保山運河から引き揚げられた同僚、友の遺体の傍らで放心状態になっているお母さんなどだ。

「私の胸には悲しく恐ろしい光景があまりにもたくさん刻み込まれていた。私は夢中で描きはじめた。時間のたつのがわからなかった」と書き残してる。

■減少続く語り部

大阪市西区に住んでいた近藤寿恵さん(故人)は最初の大空襲のあった3月13日深夜から14日にかけての体験を何枚も描いた。燃え始めた自宅、逃げる途中で見た炎の川のようになった御堂筋、死体でいっぱいになった長堀川――。今では想像もできない情景だ。

体験画にはB29による焼夷弾爆撃の後に襲来したP51による機銃掃射を描いた絵もある。

現在「語る会」の代表を務める大阪市福島区の久保三也子さん(90)は「6月7日の大空襲では火災を避けて大阪市旭区の城北公園に逃げていた勤労動員の女子生徒が機銃掃射で大勢死んだ。空襲を生き延びた人には『外では話したくない』と言う人もいた。これらの体験画を寄せてくれた人はどんな思いで描いたんでしょうか」と語る。

久保さんは終戦前、寝屋川市にあった爆弾製造工場に動員され、福島区の実家は空襲で焼失した。戦争を次代に伝えることは重要だが、実際に体験した人は少なくなり、活動は難しくなっている。久保さんも体調を理由に学校などで続けてきた「語り部」としての活動を今年で終える予定だ。

描いた空襲体験画のスライドを前に講演する東村禎三さん(左)(大阪市中央区のピースおおさか)

描いた空襲体験画のスライドを前に講演する東村禎三さん(左)(大阪市中央区のピースおおさか)

今月4日、東村さんが空襲体験や絵の説明を語る催しがピースおおさかであり、東村さんは「どうすれば悲惨な戦争を防げるかを考え続けてきた」と訴えた。 企画した主任専門職員の駒井詩子さんは「実際に体験した方の話を聞く機会は減っている。大空襲の体験画は戦争を知らない世代に戦争の悲惨な実態を知らせる貴重な資料であり、これからも活用していきたい」と語る。

(堀田昇吾)

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