大使館占拠、致命傷に (イランと米国~不信の構図3)

2019/8/13 10:00
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テヘランの米大使館の敷地外で目隠しをされる大使館職員ら(1979年、米軍提供)=ロイター

テヘランの米大使館の敷地外で目隠しをされる大使館職員ら(1979年、米軍提供)=ロイター

イランに対する米国の不信を決定づけたのが1979年11月に起きたテヘランの米大使館占拠だった。革命で高揚したイランの学生らが大使館を米国のスパイ活動の拠点だと決めつけ、敷地内に入り込んだ。50人以上の館員らを人質にして、米国が受け入れたパーレビ国王の身柄の引き渡しを要求した。明白な国際法違反で、米国は80年4月にイランと断交し、経済制裁を発動した。

事件は81年1月、アルジェリアの仲介で発生から444日目に人質全員の解放で解決した。だが、米国は対イランの断交、制裁を維持した。

事件の間、目隠しをされ、自由を奪われた大使館員の写真が世界に配信された。80年4月には米軍が救出を試みたが、ヘリコプターの故障で失敗した。当時のカーター米大統領の支持率は急落し、同年の大統領選で「強い米国」の復活を掲げたレーガン氏に敗れた。人質の解放は同氏の大統領就任式と同じ日だった。

占拠グループの対外発信を担ったのが現在、イラン副大統領を務める女性のマスーメ・エブテカール氏だ。米国で教育を受け、流ちょうな英語でメディアの取材を受けた。6月にも来日し都内で講演した。イランによる秘密の核開発計画が暴露された2002年、同国大統領だったアハマディネジャド氏も米大使館占拠グループの一員だったとの情報が流れ、米側の敵意をあおった。

79年1月の親米パーレビ国王の出国、同2月のイスラム教シーア派高位聖職者ホメイニ師の帰国で成立した革命から40年がすぎた。米国とイランの亀裂を決定づけたのは革命でなく、ホメイニ師も容認した人質事件だ。

【イランと米国 不信の構図】
(1)対立の種は米原子炉 冷戦時代、原油安定狙うも誤算
(2)「大悪魔」が内政干渉 親米政権への転覆が禍根
(4)革命の輸出に中東激震 米海兵隊宿舎へ自爆攻撃
(5)イラク崩壊で漁夫の利 シーア派実権、地中海へ
(6)7割が革命後世代 経済悪化で指導者批判も
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