横山華山「祇園祭礼図巻」大船鉾の復活 支えた精緻
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関西タイムライン
2019/7/11 7:01
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京都の夏の風物詩・祇園祭のハイライトといわれる山鉾(ほこ)巡行。全33基の最後尾を飾る大船鉾は、2014年、150年ぶりに復帰した。幕末の戦火で大半を焼失していたため、文献・絵画資料を基に再現した。考証の手掛かりとなった一つが、江戸後期の画家・横山華山の「祇園祭礼図巻」だ。

祇園祭後祭の山鉾巡行で披露された大船鉾の辻回し(2016年7月、京都市中京区)

祇園祭後祭の山鉾巡行で披露された大船鉾の辻回し(2016年7月、京都市中京区)

大船鉾が巡行に復帰してはや5年。すっかり板についたと思いきや「いやいや、実はまだ(具のない)素うどんみたいなもの」と四条町大船鉾保存会の木村宣介・業務執行理事は謙遜する。船首を飾る竜頭も、屋形の手すりにあたる勾欄(こうらん)も、なお白木のまま。それぞれ金箔を施したり、朱塗りしたりしなければならない。唐破風下の彫刻もこれからだし、屋根を支える垂木一つ一つの先端に飾り金具を付ける作業が残っているという。

■火災で大半焼失

「あれこれ工程が残っており、被災する前の姿を取り戻すには、あと20年以上かかる」(林邦彦・同保存会理事長)との見通しだ。

1864年の蛤御門の変を発端とする火災で、大船鉾は大半が焼失。かろうじて大船鉾のシンボルでもあるご神面ほかが焼け残ったため、町内はやむなく「休み鉾」という扱いで150年間、山鉾巡行への復帰の日をうかがってきた。

山鉾巡行は都心部の目抜き通りを晴れがましく行進する。それに比べ休み鉾は会所内に懸装品(けそうひん)一式を飾って陰ながら営む「居祭り」という催しに甘んじる。明治維新と太平洋戦争の荒波に加えて、和装産業の衰退と都心部の再開発などにさいなまれたこともあり、1995年にはご神体を飾る神事だけに規模を縮小するなど、一時は保存会の存続さえ危ぶまれた。

そんな苦境から反転したのは97年。有志が笛や鉦(かね)からなる囃子(はやし)を再興し、2007年に居祭りが復活。大船鉾復活の機運が盛り上がり、10年には保存会が公益財団法人に認可。12年には山鉾巡行に唐櫃(からびつ)で参加するまでこぎ着けた。鉾本体での復帰に向けた、事実上の予告宣言だ。

鉾を再現するにあたり、考証で参考になったのが横山華山の「祇園祭礼図巻」だ。ご神面は焼け残ったものの、竜頭の意匠やご神体はどんな姿だったか。その袴(はかま)の色、上着である半臂(はんぴ)は――。

■山鉾33基を模写

京都市の京都文化博物館で開催中の「横山華山」展(8月17日まで)で、その細部を見ることができる。「祇園祭礼図巻」だ。2巻から成り、全長約30メートル。山鉾33基を模写している。

千年以上の歴史がある祇園祭は格好の画題として洛中洛外図屏風をはじめ、絵画に繰り返し描かれてきた。ただ、構図の制約となり画趣をそぎかねないため、山鉾を三十数基も描くのは敬遠するのが通例だ。それでも華山はあえて精緻に写生・記録した。この結果、1864年の蛤御門の変による大火災で焼ける前の姿をとどめた、希少な資料となっている。

実際、華山は一つ一つの山鉾町に取材。懸装品や金工品、ご神体などについて、スケッチに事細かくメモを書き込んだ下絵が残っている。「入念な取材と観察眼に裏付けられており、歴史資料としての価値が高い。山鉾巡行だけでなく、神輿(みこし)還幸や宵山などにも目配りしており、担ぎ手・引き手の配置や所作も含め、祇園祭の全容に迫ろうとした華山の強い意志が感じられる」と華山を研究してきた公益財団法人頴川美術館の八反裕太郎学芸員は語る。

華山は1781年(一説に84年)に生まれ、京都・西陣の機織(はたおり)業を営んだ横山家の分家筋に養子で入る。奇想の画家といわれる曽我蕭白の作品を模写しながら、画業を積んだ。

大船鉾の船首は一年おきに交代する。竜頭を飾る年と、神事でお祓いの時に用いる御幣をかたどった大金弊を飾る年と。今年は大金弊が飾られる。大船鉾の復興が呼び水となり、今年の山鉾巡行には「休み山」の鷹山が193年ぶりに唐櫃で参加する。本格的な復帰は2022年の予定という。やはり華山の作品が再現の手掛かりとなっている。

(編集委員 岡松卓也)

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