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石原裕次郎 「脚線美」見せつけたオーダー短パン

服飾評論家 出石尚三

1957年に公開された「鷲と鷹」 (c)日活
19世紀の英国からフランスへと広がったダンディズムとは、表面的なおしゃれとは異なる、洗練された身だしなみや教養、生活様式へのこだわりを表します。服飾評論家、出石尚三氏が、著名人の奥深いダンディズムについて考察します。

<<【後編】裕次郎と二人三脚31年 私服も衣装も仕立て2000着




じりじり照りつける太陽と青い海、そしてヨットが似合う男といえば俳優・石原裕次郎をおいてほかにはいないでしょう。52歳でこの世を去った裕次郎は7月17日、33回忌を迎えます。若くして大スターとなった裕次郎は若者風俗に多大な影響を与えました。いまでは当たり前の様々な着こなしの中に、裕次郎が考え、実践し、大流行して広がったものが数多くあるのです。

■裕次郎のアロハ・シャツ姿、裾を結ぶスタイルの元祖

ハワイの別荘などプライベートでくつろぐときは短パンを好んだという(c)石原プロモーション2019

1955年に発表された兄・石原慎太郎による第一作「太陽の季節」に登場する「竜哉」のモデルが弟・裕次郎であるのはいうまでもありません。「太陽の季節」から大宅壮一が命名するところの「太陽族」が生まれました。戦後の若者風俗と結びついて当時のマスコミをにぎわしたのです。

時は夏、所は鎌倉、由比ケ浜という設定。「未だ月が出なかった。竜哉はアロハを脱ぎ捨てると言った。『俺は一泳ぎしよう。酒を飲んだらなんだか又少し暑くなった』」

若き日の石原慎太郎は秀才型。これに対する裕次郎は時代の先端、まあ、不良の一歩手前。その裕次郎がアロハ・シャツを着るのも当然でした。昭和31年(1956年)に慎太郎、裕次郎が自宅で寛ぐ写真で2人はおそろいのアロハ・シャツを着ています。白地にアブストラクト風の絵が描かれています。年代から考えると、おそらく生地を買って仕立ててもらったものと思われます。

ここでひとつ言い添えておきましょう。時にアロハ・シャツの前ボタンを外し、裾の両端を結んで着ることがあります。私が知る限り、あのくだけた着こなしの日本での創始者は、裕次郎であります。裕次郎は映画の中で、さも役柄に合わせた衣装であるかのように、アロハ・シャツの裾を結んだ姿を披露しています。でもあれは、普段から裕次郎が実践しているスタイルにすぎません。それをスクリーン上に映しただけなのです。

■トレードマークの短パンはオーダーメード

さて、アロハ・シャツとともに裕次郎のトレードマークとなっているのが「短パン」です。裕次郎は学生時代から「短パン」が好きでした。自宅に客があっても裕次郎は平気で短パン姿で現れ、慎太郎は弟をたしなめたことがあるともいいます。

ここでの短パンは後の時代のショート・パンツとは別物と思っていいでしょう。当時では限りなく下着のパンツに近い、今ならトランクスと呼ばれるような代物です。その姿は海洋アクション映画「鷲と鷹」でも見ることができます。ただし、白無地ではなく、アロハ・シャツ同様に、派手な柄物でした。この短パンの柄もおそらく裕次郎による「デザイン」だったはず。なぜなら昭和30年代にそんなものは簡単には見つけられなかったからです。

裕次郎がアロハ・シャツのような柄の「短パン」を好んだ理由の一つにはたぶん、慎太郎への当てつけがあったのではないでしょうか。慎太郎にはとてもできないことを、わざとやって見せたのではないか。しかも裕次郎は脚がきれいです。あの脚線美なら自分の脚を披露したくなるのもよく分かります。裕次郎はハワイに別荘がありましたが、そこでの普段着のほとんどがショート・パンツでした。

では、裕次郎は星の数ほどあった「短パン」をどのようにして手に入れたのでしょうか。独特の柄とカットのきれいさ。買い集めたとはとても思えない。ほとんどすべてオーダーメードであったのでしょう。

裕次郎は著書でこう告白しています。「服のデザインは全部ボクがやる。『地味な生地で、派手なデザイン』というのがボクのモットーだ。若い者にはこれがいちばんよく合うと思う。」(石原裕次郎著「わが青春物語」)。裕次郎はあるとき、親しかった長嶋茂雄とおそろいで、裕次郎がデザインしたラグビー・ジャージーを愛用したこともあったようです。白い襟で大胆な切り替えのラグビー・ジャージーですら、自分でデザインしたというところに、彼のこだわりが感じられるのです。

■21歳で出会った同じ年のテーラーを専属に

服にこだわりがあった裕次郎は、生涯に5000着もの服を仕立てたといいます。そのほとんどを手掛けたのが、東京・渋谷に店を構えていたテーラー、遠藤千寿でした。短パンも遠藤千寿の仕立てたものであったといいます。

長身でがっちりした体型に遠藤千寿氏の三つ揃いがよく似合った(c)石原プロモーション2019

遠藤と裕次郎は同学年。裕次郎が21歳の時に2人は出会います。独立する前の遠藤は洋服店に勤めており、にっかつの撮影所に出入りしていました。顧客となった俳優の1人、長門裕之の自宅でスーツの注文を取っているとき、たまたまデビューしたての裕次郎が長門を訪ねてきたのです。そこで裕次郎はこう言いました。「俺も作ろうかな」

以来、裕次郎は自分の服のすべてを専属テーラーである遠藤に作ってもらいました。海外から取り寄せたスーツの生地から裕次郎が好みのものを選び、その都度、直輸入して仕立てたといいます。当時、同じ生地はまず日本には入ってこなかったのです。

スーツの表地に凝れば、裏地にも凝る。あるときは裏地に柄を使いたいという裕次郎の要望で、遠藤はエルメスのスカーフを調達しました。裕次郎は背が高いため、上着の裏地にはスカーフが3枚必要だったそうです。こうしたスカーフ柄の裏地を取り入れたのは、日本では裕次郎が先駆けだったのではないでしょうか。

1987年、遠藤は東京・信濃町の慶応病院を訪れました。病床の裕次郎からスーツを仕立てたいと注文が入ったためです。遠藤が用意した生地見本の中から裕次郎は8着分の生地を選び出しました。結局そのスーツには袖を通すことはありませんでした。

出石尚三
服飾評論家。1944年高松市生まれ。19歳の時に業界紙編集長と出会ったことをきっかけに服飾評論家の元で働き、ファッション記事を書き始める。23歳で独立。著書に「完本ブルー・ジーンズ」(新潮社)「ロレックスの秘密」(講談社)「男はなぜネクタイを結ぶのか」(新潮社)「フィリップ・マーロウのダンディズム」(集英社)などがある。

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