2019年9月22日(日)

「大大阪」歩みと挫折 市制130年、3度の拡張
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関西タイムライン
コラム(地域)
2019/7/4 7:01
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大阪市を廃止して特別区を設置する「大阪都構想」の議論が法定協議会によって再開された。来年秋にも住民投票が実施される可能性が高まっている。では現在の大阪市の姿はどのようにしてできあがったのだろうか。振り返ると3度の市域拡張で面積を広げ、人口増を受けて3度の分割で区を増やし、1度の区の統合を経て今の24区がある。市制施行後、都市の形を探り続けた130年だった。

1889年(明治22年)に市制町村制の施行に伴って大阪市が誕生した。江戸時代に「大坂三郷」と呼ばれたエリアを東西南北の4区に分けた。面積は15平方キロで現在の7%にすぎない。

市制発足後も大阪、京都、東京の3都市は各府知事が市長の職務を担ったが、98年(明治31年)の特例廃止によって市長が生まれ、大阪市は自治への本格的な一歩を踏み出す。これに1年先立って、大阪市は第1次市域拡張に踏み切る。周辺28町村の編入で面積は3.6倍になり、西側は大阪湾に到達した。この年に天保山で築港工事を始めた。

市域拡張は人口増に伴う市街地の拡大に対応して一体的に都市を整備できる利点がある。大阪駅と天王寺駅も市域に取り込まれた。

■一時東京上回る

産業の発展や人口増加に伴って、市街地の改造や道路の拡幅が必要になり、都市計画事業が始まる。これに合わせて1925年(大正14年)、第2次市域拡張として周辺44町村を編入した。面積は前年の3.1倍の181平方キロ、人口211万人となった。関東大震災直後の東京市を抜いて、面積・人口とも日本一の「大大阪」と呼ばれた。

当時の関一市長は「面積の広きことや、人口の多きことを誇るべきでない。この自由なる進取的の企業精神を活動せしむる根拠地として大大阪を完成すべきである」と講演した。

大大阪の誕生と同時に心斎橋筋の大丸呉服店東南角に設置された「大阪市中心標」(写真手前の黒い支柱)=「大大阪画報」(1928年)より

大大阪の誕生と同時に心斎橋筋の大丸呉服店東南角に設置された「大阪市中心標」(写真手前の黒い支柱)=「大大阪画報」(1928年)より

英国の田園都市をモデルに居住、工場、商業の機能別にエリアを分離したのがポイントだ。まだ田畑が広がる周辺の村を確保。道路や鉄道などの交通インフラを整備してそれぞれの機能を結びつける発想だった。大阪市史料調査会の古川武志調査員は「このとき全国で初めて都市計画の思想が大阪に持ち込まれた。大阪市の歴史は都市はどうあるべきかを模索し続けた経過と言っていい」と指摘する。

■5市が吸収拒否

昭和の時代には人口急増を受けて3度の分増区が実施された。最大30万人を目安に区ごとの人口規模をそろえて、住民サービスを平等にする狙いがあった。

第3次市域拡張は壮大な計画に対して、未完に終わった。大阪市は50年(昭和25年)に豊中、吹田、守口、布施(現東大阪市)、八尾の5市と11町村編入の基本方針を決定した。人口249万人、面積321平方キロとなるものだった。ただ、政令市移行問題もあり、5市は大阪市に吸収されることを拒否した。

地域講座、ナカノシマ大学で「大阪24区物語」と題して講演している作家の本渡章氏は「経済成長への途上で公害など都市問題が深刻化しつつあり、都市の巨大化への疑問が噴出した。周辺市も大阪市との一体化をためらった」と解説する。

令和に入った現在、大阪市の人口は20政令市のうち2番目に多い272万人。一方、面積は17番目の225平方キロだ。拡張や区割り変更を顧みると、主に人口の増減に合わせてきたことが分かる。大阪市が策定した「人口ビジョン」によると、2040年に232万人に減少する見通し。都市の形を探る歴史は続きそうだ。

(木下修臣)

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