生野鉱山と播磨 貫いた「銀の馬車道」
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関西タイムライン
2019/6/27 7:00
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1876年(明治9年)、日本初の「高速産業道路」ともいわれる生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)が兵庫県の生野銀山(現・朝来市)と飾磨津(現・姫路市)の約49キロを結んで開通した。欧州の「マカダム式舗装」で整備された馬車専用道は水はけもよく、生野からは鉱石、飾磨津からは鉱山で使う資機材などを運んだようだ。2017年に生野と明延鉱山を結ぶ「鉱石の道」とともに日本遺産に認定されたが、実は本当の姿はよくわかっていない。

フランス人のレオン・シスレーが技師長として整備したマカダム式舗装は道路を水田より約60センチメートル高くし、下から粗い石、小石、豆砂利・砂の順に敷き詰めてローラーなどで固めたもの。旧来の道が幅1~2メートル程度で曲がりくねっていたのに対し、幅は6~7メートルほどで交互通行できたようだ。直角に曲がる場所は2カ所のみで峠ではS字カーブにより勾配を緩くした。

実態に謎多く

生野から飾磨まで、ところどころ馬車道跡を歩いてみた。国道や県道に変わっている部分も多い。林を抜け、田んぼや麦畑を縫い、神社仏閣や旧宿場町の古い街並みを通り抜ける。途中の福崎町辻川には民俗学者の柳田国男の生家があった。馬車道開通の前年に生まれた柳田は「非常にふるい道路の十文字になった所に育ったことが、幼い私に色々の知識を与えてくれたように思う」と書き残している。近代化の息吹を感じられる道だったのだろう。

飾磨には生野で焼いたというレンガ塀が残る。鉱石や銀はここから船で大阪の造幣局や香川県の直島の製錬所に運んだようだ、と推定が多いのは理由がある。

「銀の馬車道という言葉だけが先行していたのです」と神河町教育委員会の竹国よしみ学芸員。馬車道に触れた文書や写真は少なく、運んだ物も明確でない。

日本遺産は「地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリー」を文化庁が認定するもの。鉱石の道には明延鉱山の遺構などがあるが、銀の馬車道はまだストーリーが中心だ。神河町は馬車道跡で発掘調査をし、マカダム式の遺構を確認。日本遺産の認定に寄与した。旧家の蔵などに資料が眠っている可能性は十分あり「調査を進めて解明していきたい」と竹国学芸員は語る。

播磨学研究所長の中元孝迪・兵庫県立大学特任教授に馬車道の様子を推測してもらった。馬車の速さは人が歩くより少し速い程度で、生野を朝出れば夕方には飾磨津に到着したようだ。荷車は二輪と四輪が混在していたか。馬で運ぶより効率的で、建設前の試算では輸送経費が8分の1になるとしている。

見える化に力

開通は播磨地域の飾磨県が兵庫県に統合された年で、同年に兵庫県が作製した地図に「生野鉱山寮馬車道」が載る。「播磨を統合した県は播但を貫く道路をPRしたかったのではないか」と中元所長はみる。

1895年には播但鉄道(現JR播但線)の生野―飾磨が開通して貨物は次第に鉄道に移り、馬車道は1920年には廃止になって歴史に埋もれていった。

兵庫県や沿道市町などでつくる銀の馬車道ネットワーク協議会は「銀の馬車道の見える化」を進めている。馬車の模型やモニュメントを各地に設置し、沿道の連携にも力を入れる。18年度は馬車からの連想で、銀色に見えるカボチャ「伯爵」などの苗を神河町や福崎町に1500本植えて、10店舗でカボチャ料理を提供した。県中播磨県民センター産業観光課の山名佐知子班長は「見える化と地域連携、古文書などの研究で、銀の馬車道の姿がより明確になれば」と期待する。

(編集委員 宮内禎一)

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