2019年6月18日(火)

競馬「西高東低」なぜ定着 栗東の坂路、名馬育てる
とことん調査隊

関西タイムライン
コラム(地域)
関西
2019/6/11 7:01
保存
共有
印刷
その他

関西地区の厩舎に所属する競走馬の調教拠点である、日本中央競馬会(JRA)の栗東トレーニング・センター(滋賀県栗東市)が開設されて2019年で50年。以前は強い関東馬の後じんを拝していたが、立場は逆転し「西高東低」といわれるまでに強くなった。なぜ逆転できたのか。

関西馬の年間勝利数が関東馬を初めて上回った1988年以降、西が東を上回り続けている。18年も西は2029勝と東に601勝差をつけた。栗東で多くの名馬を育てた坂口正大・元調教師に逆転の要因を聞くと「坂路の開設など、施設が改善されたことが大きい」と教えてくれた。

トレセン開場以前は競馬場で調教をしながら馬をレースに出していた。競馬場周辺の都市化で競走馬の飼育に適さなくなったことから、トレセンを建設。栗東には京都(京都市)、阪神(兵庫県宝塚市)、中京(愛知県豊明市)の3競馬場にあった厩舎を集約した。用地選定に難航した関東の美浦トレーニング・センター(茨城県美浦村)より、9年早い開場だった。

だが栗東移転当初の関西馬は劣勢だった。西の調教師は、関東馬は東京(東京都府中市)、中山(千葉県船橋市)の両競馬場にある最後の直線の坂を登って鍛錬されるから強いとみた。こうした声を受け、85年に栗東に坂路ができた。当初はコース長が短く様子見の調教師も多かったが、坂路調教馬が成績を上げると利用が拡大。コースも延伸された。逆に関東は坂のある競馬場から無い美浦へ移動。93年に坂路はできたが高低差が小さく、調教効果は薄かった。

逆転の理由はほかにもある。昔は馬の調教と世話をする人が分かれていたが、1人で担当馬の調教と世話の両方を手掛ける手法を関東に先駆けて導入。業務を効率化した。

もう一つ見逃せないのが、栗東の立地の良さ。開場当時からすぐ近くに名神高速道路の栗東インターチェンジ(IC)があり、競走馬の輸送に便利だった。一方の美浦は交通の便が悪い。今も関東の関係者から聞かれる不満だが、過去の新聞記事や資料を調べると東西逆転の直後からこうした声は上がっていた。

栗東と美浦から各競馬場への輸送時間は、栗東―京都、阪神が1時間前後の一方、美浦―東京は2時間かかる。栗東は他地域への遠征もしやすく、関東へは6~7時間と美浦―関西と比べ3時間短い。新潟(新潟市)へは美浦とほぼ変わらない6時間半、小倉(北九州市)へは7時間半と美浦の半分以下で行ける。「美浦の言い訳にすぎない」という栗東の現役調教師もいるが、差が大きいのは確かだ。

そもそも栗東近辺は歴史的に交通の要衝だった。主要都市から京都への道が通る場所にあたり、江戸時代の五街道のうち東海道と中山道が栗東市内を通っていた。隣の草津市で両街道は合流。草津宿は重要な宿場町として栄えた。

現在も東京方面に向かう国道1号と北陸方面の8号が栗東市内で合流。63年に開通した日本初の高速道路は名神高速の栗東IC―尼崎IC間だった。高速の開通決定後は栗東市内に積水化学工業や日清食品が拠点を建設、産業集積が進んだ。実際、市内を歩くと大きな工場が目立つ。

住民が高速道路の建設に反対する地域もあったが、栗東は「好機と考え、発展に生かそうとした」と開通当時の事情に詳しい栗東歴史民俗博物館(栗東市)の大西稔子学芸員。実はトレセンも当時の栗東町長が中心となって誘致した。大西さんは「昔から街道が通っていたので、交通網の持つ強みと、それに伴う産業集積の効果への理解が早かった」とみる。建設当時の資料によると、JRAも交通の便を重視。地元との用地交渉は比較的順調に進んだ。適地をスムーズに見つけた幸運も西高東低につながったといえそうだ。(関根慶太郎)

保存
共有
印刷
その他

電子版トップ



[PR]

日本経済新聞社の関連サイト

日経IDの関連サイト

日本経済新聞 関連情報