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組織運営学んだ天王寺高ラグビー部 三菱地所PM社長

川端良三・三菱地所プロパティマネジメント社長(上)

川端良三・三菱地所プロパティマネジメント社長

三菱地所グループで、主にビル管理などを手掛ける三菱地所プロパティマネジメント(PM)。川端良三社長は大阪の名門校、府立天王寺高校の出身だ。「最も打ち込んだ」というラグビー部ではバイスキャプテン(副主将)を経験。主将と選手の間に入り、様々な考えを持つ集団を一つにまとめる中で、企業マネジメントにも通じる組織運営力を学んだと語る。

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天王寺高校に入学したらぜひラグビーをやってみたいと考えていた。

ラグビーは中学時代からプレーしていたわけではありません。ラグビーとの出合いという意味では、他の人とは少し変わっているかもしれません。

中学3年生のとき、大阪市内の別の地域から天王寺高校がある学区に引っ越しました。当時は、まさにテレビで「3年B組金八先生」が放映されていた年で、社会的にも都会の中学校が少し荒れていた時期ではなかったでしょうか。繁華街に近い学校ということや、中学3年生のタイミングでの転校ということもあり、いじめられることをある程度覚悟していたと思います。

初日、非常にアウェーな雰囲気の中、見た目がやんちゃそうな奴らが何人か近寄ってきて、色々といじられたと記憶しています。ただ、嫌な感じは少しもなく、非常に人情味があり、むしろさわやかで。その後、想像以上に早く仲間ができましたが、その中の何人かがラグビー部員でした。当時のラグビー部の顧問だった乾先生は非常に厳しいながらも正義感と温かみにあふれる方で、その精神がラグビー部員やそれ以外の生徒たちにも浸透していたのだと思います。心から尊敬できる先生でした。

そんなこともあり、高校に進学したらラグビーをやりたいと考えるようになりました。天王寺高校ラグビー部の創設は1922年と大阪府内の高校では最も長い歴史を持ちます。ライバルである大阪府立北野高校との定期戦は26年に始まり、関係者の間では「高校では日本で最も古い定期戦」といわれます。

私学の強豪校が台頭していた時代だった。

私が入学した当時、ラグビー部は全国大会(いわゆる花園)に19回出場し、優勝2回、準優勝3回と輝かしい戦歴を誇っていました。ただ、私学の強豪校の台頭が著しく、直近の10年くらいは花園に出場できていない状況でした。

また、練習環境も恵まれていませんでした。グラウンドは土で(当時は当たり前でしたが)、ラグビー部、野球部、ホッケー部、サッカー部の4部で共用していました。練習時間も放課後の正味2時間くらいだったと思います。監督、部長もラグビー界で名の知れた方々ではありましたが、ラグビー専門のコーチとかではなく、天王寺高校で教壇に立たれている現役の先生方でした。

「主将の考えをブレークダウンしてわかりやすく伝える。この経験が社会人になっても役に立った」と振り返る

現役部員内での上下関係も厳しかったですが、何より緊張したのはOBが来るときです。休日や夏休みなど、無償で指導に来られる。ありがたい半面、現役の我々にとっては怖い存在なわけです。それこそ高校日本一になった時代の先輩方などは特に怖かったです。また、夏合宿にはOBの方々が大挙していらっしゃり、選手1人にOB1人がコーチとして付くくらい、ほぼマンツーマンでの指導のような感じでした。どこにも逃げられません。これはきつかったですね。

ただ、先生や先輩方の厳しい指導には一本の芯が通っていました。相手(個人)を尊重すること、チームメートへの思いやり、そして勝利のために自分が何をすべきかを常に考える。天王寺高校の校訓は「自由闊達、質実剛健」、そして「文武両道」。ラグビー部は長い歴史の中で、まさにこうした精神を体現してきたと言えます。

尊敬している先輩の一人で、ラグビー関係者で知らない人はいないと思いますが、4つ年上の代に松永敏宏さんがいらっしゃいます。高校3年生の時、府大会の決勝戦で惜敗し残念ながら花園には出場できなかったのですが、その後、個人として高校日本代表に選出されました。後に慶応大学ラグビー部でも主将をされ、その年は関東大学ラグビー対抗戦グループで全勝優勝。平尾誠二さんが率いる同志社大学との大学選手権決勝戦は今でも語り継がれている程の名勝負でした。

また、松永さんの1つ上の代の一井哲さんも同じく、花園には出ていませんが、高校日本代表に選抜されておりました。花園に出場もしていない高校から2代続けて高校日本代表に選ばれるということは、単にラグビーの技術だけでなく、まさに天王寺高校で培ったその精神も評価されてのことではなかったでしょうか。

高校3年生のとき、副主将を務めた。

心掛けていたのは、主将と選手のつなぎ役、フォロー役になることです。1~2年生と3年生とでは戦術に対する理解や試合への心構えが違います。ですので、主将の言葉の真意が後輩たちに伝わっていないと思うことがあったように思います。3年生同士でも、主将が考える作戦と、個々の選手が目指すプレーとの間にズレが生じることもあります。そういうとき、主将の考えをブレークダウンしてわかりやすく伝える。間に入っている自分だからこそ、できる役割だと思ったんですね。

この経験は就職して管理職になってからも役立ちました。上司の言うことをそのまま部下に伝えるだけなら、中間管理職の意味はないわけです。就職してからは、上司が気づいていない課題も伝えるように努めました。上に対してきちんと物を申せるかどうか、下の人はちゃんと見ていますからね。

ラグビーでも大きな相手に正面からぶつかっていく選手もいれば、ちょっと逃げたりする選手もいます。得点は取るけど、泥臭いプレーはやらないとか。善しあしは別として、「あいつはそういう奴なんだな」という評価にはなりますね。卒業して何年たっても酒席などで「お前、あの試合で逃げたよな」と言われますから(笑)。

もちろん、人間ですからいろいろなタイプがいるのは当然です。ラグビーの良いところは、15人の選手が補い合えることだと思います。ウソをつかず、本音でぶつかり合う中で、お互いのプレーの癖がわかってくる。それを理解し、受け入れて試合に勝つためにフォローし合っていく。これは企業社会にも通じることではないでしょうか。

正直言って、勉強は二の次だった。

中学時代の成績は良かったと思いますが、天王寺高校に入ると周りはみんな優秀な奴ばかり。どんどん置いていかれるので、反動でますますラグビーにのめり込むようになりました。

ただ、ラグビー部にも優秀な生徒が数多くいました。天王寺高校には独自の模擬試験「天王寺模試(通称、てんもし)」というのがあり、かなりハイレベルなのですが、1年から3年までラグビー部に所属しながらもずっと学年トップだった同級生がいました。東大に現役で合格し、今は研究の道に進んでいます。1つ上の代にも同じく3年間トップの座を維持し、現役で東大に進んだ先輩がいて、今は官僚になられています。この先輩は、あの厳しい夏合宿の最中も夜になると一人で勉強していて、本当にすごい人だと驚いた記憶があります。

天王寺高校は進学校で、文武両道をしっかり指導していると、親も知っています。ですから成績が落ちても「ラグビーをやっているから勉強ができない」とは言えないわけです。これには参ったなという感じでしたね。恥ずかしながら、自分自身は文武両道とは言えなかったと思います。

(村上憲一)

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